意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

土曜日の仕事

お昼にブログを書いていたら、珍しく筆の進みが悪く、そういえば今日は全体的にのっぺりしていて、今日はお仕事なのだが、体もすごく重かった。「お昼に」なんて書きながら、実は今もお昼なのだが、書き終わる頃には夕方くらいになっているから、お昼と書いても読んでいる人は不自然に感じないだろう。私は不自然極まりないが。

書こうと思ったことを忘れることがよくあるが、そういえば昨日は公園に行き、そこでカラバッジョの紹介をせっかく本も手元にあるからと、表紙の裏に書かれているのを写してみたのだが、これが実に苦痛をともなう作業だった。引用するから、文字を間違えて打ってしまってはまずいと思い、そうやって慎重にのろのろとやっているのは、とてもつまらない。おまけに蚊にも刺されてしまった、腰と右腕の4箇所くらい。

保坂和志の小説入門の本では、ワープロよりも手書きの方を推奨していたが、それはワープロのほうが書いていて疲れないし、間違えてもすぐ直せてしまうからで、書いたものに手を入れすぎてしまう傾向にあるから、との理由だった。私はiPhoneでこれを書いているが、iPhoneワープロではないと、言い逃れをするつもりはないが、そう考えると、パソコンで書くよりもずっと希望があるような気がする。

ところで、数日前にコメントで、
「一定のペースで書かれていますね」
という趣旨のことを書いていただいたことがあって、これだけ書くと、文章ではなく、一定間隔で記事を更新しているとを指しているようにも見えるが、その後に、ドラムをやっていたと聞いて、納得した、とあって、私はドラムをやっていた当時はとてもリズム感が悪かったから、とても驚いた。しかし、その当時私はレッスンを受けていて、それはメトロノームに合わせて腕を動かすというひたすら地味なトレーニングに終始したが、ある程度身についてくると、だんだんと気持ち良くなってきた。私はこの気持ちよさについて考えてみて、これはひょっとしたら過去から未来へ流れる時間軸の中に、音符というのは始めから埋められていて、それに導かれて、叩く、叩くというよりも腕の筋肉が伸びたり縮んだりするからではないか、と思った。これは、以前にも書いたが、夏目漱石の「夢十夜」に出てくる彫り師が仏像を掘る時には、木や石を仏の形にするのではなく、木や石の中に埋まっている仏を探している、という考えを応用したものだ。

とにかく意思とかそういうのを排除したものが気持ちが良い。そういえばペースのことを言われてから、最近「銀の匙」を読んでいて、これこそ良いペースで書かれた文章じゃないか、とも思った。「銀の匙」は自分の幼年期、少年期を描いた小説で、細かく章わけされているのだが、各章の終わりに特にまとめや、作者の解釈のようなものがなく、私はそういうのがなくて良かったなあと思いながら読んでいる。話をまとめると、つまり作者の気持ちとか私情を挟んでしまうと、途端に小説はテンポが悪くなるのである。

逆に「銀の匙」の中でも、文がそれまでと異なってぐちゃっとした箇所があり、それは主人公の兄が出てくるところだ。wikiを読んだら、作者は兄とはあまり仲が良くなく、ある時兄の嫁を寝とってしまったら、兄が結婚式の当日に自殺してしまったらしい。それが銀の匙が書かれる前なのか後なのか、そこまで細かく読まなかったのだが、そういうのが、作家の筆を鈍らせたのではないか、とか考えるのも面白い。テンポが良すぎる小説もつまらないのである。

銀の匙 (小学館文庫)

銀の匙 (小学館文庫)