意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

子供の顔を鏡のように眺めると、自分の老いた顔がうつる

今日は休みだったから妻におにぎりを握ってくれるよう頼んだら、妻が仕事に行った後に台所に言ってみたらおにぎりが2個あったので、夫婦関係の難しさを思った。私としては1個で良く、いつも数を聞かれれば1個と答えているから、今日も1個のつもりだった。

昨日のブログで私が少食であるようなことを書いたが、実際はそうではなく、特にご飯は好きなので、おにぎりなんかはスルスルと食べてしまい、この前はうっかり4個も食べた。そうしたらやはり後悔した。私は用意されると我慢がきかなくなってしまうので、最初から少なめで臨む方がいいのだ。

私は昨日のブログでなんとなく勢いで「少食」と書いてしまったが、私としてはそういう自覚はないのに書いてしまったのはなぜだろう? もちろん昨日書いたものはかなり創作の色を濃くしているから、あそこの「私」は今ここで登場する「私」とは違うんですよ、と弁解することができる。だけれども、文章というのは、知らないうちに意図とは違うことを書いていたり、また、知っていてもどうしてもこうとしか書けない、という場面がある。だから、書けば書くほど「私」の登場回数は増えるけど、書きながら「お前誰だよ」と言いたくなってくる。言い方を変えれば段々と自分を演じるようになってくる。「自分を演じる」なんて、ベタな言い回しを使ったのは、
文章と演技って似てるんだなあ
と言いたかったからである。

ところでおにぎり2個、と言うとなんだかピクニックとか、探検に行かなければ、おにぎりがだんだんと可哀想になってきてしまう。おにぎり2個で探検、て何かの漫画で読んだ。

さっき色々とブログを読ませてもらっていたら、今はベビーカーが炎上しているらしく、私もなんとなくそのことを考えてしまった。私も子供が2人いるから、ベビーカーもあった。2人で使いまわしたから、とてもぼろくなった。最初は屋根がついていたが、いつからか取れてしまい、はめ込む穴みたいなものだけが残って、そこに買い物袋とか下げてた。屋根が付いていた頃の記憶は全くない。

そして、最後に子供がベビーカーに乗っていた記憶も、もはや風前の灯といった感じで、昨日一緒に風呂に入ったら、思いのほかでかく感じ、顔を覗き込んだら、そこに老いた自分の顔が見えた。

私はなんだかいまだに自分が親らしく振る舞うのが照れ臭くて、どの親も24時間親ではいないだろうけれど、私は本当に必要な場面だけ、重い腰を上げるみたいに親っぽいことを口にしたりする。こう書くと「友達みたいな親子関係」と思われそうだが、どちらかと言えば他人同士のような親子関係である。