意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

どうして思ってもいないことを書いてしまうのか

昨日、たぶん昨日に、ブログの中で「友達みたいな親子」というようなことを書いたら、それをきっかけにして考えたことを書いてくれた方がいて、私は、しかしながら特に言及とかコメントとかされていないから、100%私の記事が、という確証はなかったが、おそらくなんとなく私だろうと思い、コメントを書かせてもらった。
「私の記事じゃなかったら恥ずかしいですけど(笑)」
とか、最後に入れようかと思ったが、そういうことを書いたら自己嫌悪になりそうだから、図々しい感じで、当然という顔をして書いた。そうしたらそこにコメントをつけてもらったので、めでたしめでたし、という具合になった。それでも、もしかしたら向こうが気を遣ってるだけで、本当は違うのかもしれない。それがいちばん話としては傑作だろう。

「友達みたいな親子」について、書かれたブログでは「元のブログ(私のブログ)では、「友達みたいな親子」というのは主題ではなかったが」という旨の断りがいれてあったが、私は、今となってはもうそこ以外覚えていない。読み返せばいいのだろうが、読み返すとここから先の書くことが変わりそうなので、読み返さない。

たしかに友達みたいな親子の段落は、最後の付け加えのように書いた。しかし、私は、あそこを書いているとき、自分の中でふっと力が抜けたのを覚えている。だから、一瞬消そうか迷ったのだが、消さなかった。そうして、自分の親子関係のことを書いたのだが、なんだかこれを読んだ人は、
「この人は友達みたいに子供と接している」
と思われそうで、そう思われるとなんだか実際の私とずれてしまいそうなので、あわてて「友達関係というより他人関係だ」と付け加えて結んだ。だから、後から書かれた方は「真髄ではない」と言っていたが、私が書いたときのためらいや戸惑いが、伝わったのではないか、と後から私は思った。ただの偶然だ、と片を付けるのが自然なのだが、私としてはそういう見えない力的な方を支持したい。というか、文章を綴る人は、誰でも記号としての文字以上のものを期待きているのではないだろうか?

そうなると、やはりあの記事の中心は「友達みたいな親子関係」なのである。ところで何故私は友達みたいだと嫌なのだろうか。私の父親はどちらかと言えば親子関係の線引きを明確にするタイプで、昭和の父親のような厳しい面もあった。厳しさを紹介するエピソードとして、弟が中学のとき、寝坊してしまい、そのときたまたま父がいたのだが、父の座椅子の上に弟の制服がかけてあった。すると弟はそのまま制服を着ないで学校へ行ってしまったのである。制服を着ようとすれば、父に見つかって怒られる。それよりも学校の先生に怒られる方がまだマシだと判断したのである。ちなみに、当時私は大学生で暇だったので家にいて、弟の制服が父のそばにあることを教えてあげ、弟の顔が真っ青になるのを楽しんでいた。

このエピソードからわかるように、私は父が嫌いというわけではなく、反面教師にして子供と友達になろうとしたのではない。だから、私が「他人関係」と書いてしまったのは、無意識のうちに、父の名誉を守ったのかもしれない。かもしれない、で止めておく。

父は、確かに厳しかったが、理不尽な男ではなかった。しかし私はそのことで苦しんだから、子供にはたまに理不尽に接している。