意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

檻は背景か

今、というか最近保坂和志の「小説、世界の奏でる音楽」読んでいるが、これはやはり今の出来事なのだが、とても面白いかしょがあったのだが、それよりも少し前も衝撃的な箇所があって、これも後で引用しようと思っていたが、今回の箇所はもう読んだ途端、最初はくすりと笑う程度だったが、そのあと思考がどぼどぼと止まらなくなってしまい、だからもう私は書くしかないという感じだ。書いていると、文字を追うから、思考は落ち着く。考えてみると、文章というのは一行、一行、と書いて、高性能のプリンターのように3行4行同時にかけるものではない。つまり、書いている行為は1本道で迷いようがなく、書いている行為が気持ちいいとか救われるとかいうのは、そういう安心感からくるものなのかもしれない。私はどちらかと言えば狭い道が好きだ。

引用する。
「私は動物園で写生したときに、檻の線を先に描いてしまったので中の動物をうまく描けなかった。」

私はこの間抜けな光景に最初笑った。「うまく描けなかった」とあるから、これはきっと小学生だ。幼稚園児なら、うまく描くだろう。小学生なら体育帽子をかぶって敷物を敷き、虎なりシマウマの前で、檻の間を縫うように、神経を使いながらかいたのだ。疲れる。でもシマウマなら白か黒、虎なら黄色か黒で済ませられるから、楽なのかもしれない。そういう錯覚を利用した絵が、たしかあった。


しかし奇妙である。いや奇妙ではない。普通のことであるのに、描きたい目的物が、いちばん手前になければおかしいのに、なぜ檻というものがさらに手前にあるのかが、不自然でしかたない。檻の絵、というのなら、わかる。しかし、この小学生は虎の絵を書こうとしている。だから、つまり、檻の中に入って間近に書くことができなければ、動物園で描く絵というのは、全部檻の絵になってしまう。(ふれあいコーナー等は除く)その証拠に、背景という言葉はふつう、目的物の後ろの風景を指す。私は絵に詳しくないから知らないが、この虎の前の檻は、「背景」と呼ぶのだろうか? 呼ぶのかもしれない。自信がなくなってきた。


私は1本道を進んでいるのに、やっぱり進むのか止まるのか、とかで迷う。