意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

施しは誰のために

午前中に新製品の営業の人がきて、それは初めて見る営業の人だから、もともとは◻︎◻︎を作っている会社なのかと思ったら、△△を作っている会社でした。
「水をかけても大丈夫ですか?」
と聞くと、
「もともとは外で使っているものですから」
と言われた。さてなーんだ? とクイズにしたところで、私には正解を言う気はないし、聞いたところで、へー、くらいにしか思わないだろう。つまり私は文字を埋めるだけのためにこの話をした。それから、昼に所長のところに行って苦情を言ったら、初め上司はいなかったが、やがて入り口にハイエースを横付けして帰ってきた。事が済んだら、私はやっぱり腑に落ちない気持ちであったが、脇にはびっしょりと汗をかき、その後も昼休みは続くが、もう何をしようという気にもならずに、はてなブックマークを開いて見たら、ダンディ坂野のインタビューが出ていて、ダンディ坂野は偉大な人だとか思いながら読んだが、そのときの私の意識は全然違うところにある。私の本艦ではない意識のところで捉えるダンディ坂野は、それに相応しい。

そうしたら今日ブログに書こうと思っていた、朝のことをすっかり忘れ、かなり堅い粘土に釘で文字を書くような気持ちで刻み込んだ思考だったが、あっさり忘れた、と思ったら思い出した。

今朝ジーザスクライストスーパースターのCDを聞いていて、ラストサパーの場面の音楽を聴きたかったが、流れなかった。それで、私は聖書をちゃんと読んだことはないから、どこからフィクションなのかはわからないが、聖書を元にした話に、フィクションも何もあるのだろうか? ともかく、ユダは銀貨30枚でキリストを売った、と言われ、これは多分聖書
に出ているだろうが、その前、かなり冒頭の部分に、ユダが、自分の髪に香油をたらして、キリストの足を拭いてあげるマグダラのマリアを批判する場面がある。ちなみに、聖書では、香油で足を拭くのはマリアではないという話もある。

つまりユダは、「そんな高価な香油を1人の男の足になんか塗ってあげないで、売ってお金にして、貧しい人に施した方がずっと価値がある」と批判する。すると、キリストは激昂し、
「そんなことで貧しい人を救えると思うか」
と詰め寄って、ユダは「なんだよ……」という顔をしてその場を離れる。

それからユダがキリストを裏切る場面、キリストを捕らえるのに絶好の場所をカヤパとアンナス(ファリサイ派)に教えるのだが、そこでカヤパはお金を渡そうとするが、ユダは激しく拒否をする。すると
「お金はお金なのだから、これで貧しい人に施し、救ってやればいいじゃないか」
と説得され、結局は受け取る。この場面が私は大好きで、私は今書きながら軽く興奮している。皮肉というやつである。ユダはおそらく、かつてのマリアを批判した自分を思い出し、そう主張する自分を矛盾させないためには、お金を受け取らなければならなかったのである。そう考えると、ユダは、感情よりも理屈が勝ってしまう人間である。「これからの正義の話をしよう」に出て来る、線路の切り替えの話、列車が線路が二つに分かれるところに差し掛かったとき、このまま線路を切り替えずに行くと線路Aに行くが、ここには瀕死の人が5人横たわっていて、5人轢き殺してしまう。しかし、切り替えレバーを線路Bの方に変えれば、線路Bに横たわっているのは1人だから、1人死ぬだけで済む。ちょっと説明が足りないかもしれないが、有名な話、私は別々の2冊の本からこの思考実験を聞いたし、テレビでもやっていたと聞いたから、各々で足りないところは補足して、必ず誰かしらは死ぬと思ってください。

ユダなら、レバーを切り替えて、1人殺すのが正しい、と判断するのではないか。レバー、と言うと黒いシャフトに、赤い丸が付いているのを想像する。赤い丸に自分の手のひらを引っ掛けて、ところでジーザスクライストスーパースターの映画のユダは、黒人だったが、黒人は手のひらはそれほど黒くなかった気がする。その、ぬるぬるする手で、レバーをつかむのだ。そうしたら列車の運転手は実はキリストで、
「お前は何もわかっていない」
とか言いながら、横たわっている1人を轢き殺す。実は助かった5人の方はいずれもファリサイ派の位の高い僧侶で、ユダはみんなに感謝され、祝福されるのであった。では死んだ1人とは誰なのか?