マイルス「おい、お前こんなところでなにやってんだよ?」
コールマン「あ、マイルスさん、ちーっす。あの今日やる曲、ソーホワットなんですけど」
マイルス「わかってるよ、だからなんだよ?(眉間にシワを寄せ、早口で聞き返すマイルス)」
コールマン「あ、あの、俺のサックスソロなんすけど、昨日やったときにトニーに煽られちゃって、なんか意味不明なの吹いちゃって、んで、今日はあらかじめ対策練っておこうかと思いまして」
マイルス「てめえなんてことしてんだよ?」
コールマン「は?」
マイルス「もういいや、お前クビだわ」
コールマン「え? え? 今夜ってことっすか」
マイルス「(コールマンにそっぽを向きながら」マネージャー! 今から空いてるサックス探してくれや! 今夜から出れるやつ。穴あいちまったよ!」
かわいそうなジョージ・コールマン。彼は何が悪かったのでしょう?
これは昔村上ポンタ秀一というドラマーが、月刊ドラムマガジンで連載されてきたコラムで紹介していたエピソードだ。私はこのコラムを読むのが毎月楽しみで、いつしかこれが終わる前に私はドラムマガジンを買うのをやめてしまったのだが、特に最近、ブログをやるようになってから、このコラムのことを思い出し、あれはたしか文章を書いていたのではなく、たぶん喋ってもらった内容を書き起こしたものだった。しかし、とても刺激的な内容だったから、単行本になってれば是非とも買い求めたいと思ったが、なっていないようだから、私は残念だ。
村上ポンタ秀一については、
「俺は練習は一切しない」
「アスリートじゃないんだから、バラードなんかはかえって体調悪い方が良く叩ける」
などの、名言というか、一筋縄でいかない言葉がたくさんあり、私はそのときは、ただ「意味わかんないけど面白い」みたいなぼんやりとした読み方しかしなかったが、やはり今になって思うと、少なくとも文章に関しては、わかるものよりも、わからないものの方が面白い。
昔「ソフィーの世界」という本の解説を読んでいるときに、なぜソフィーの世界がこんなにウケるのかと言えば、難しい哲学の内容を、比喩を使うことでイメージしやすくし、わかりやすくしているからだ、とあって、私はそれにとても感心し、文章とは比喩が大事なんだと思うが、比喩はわかったような気にさせるだけで、実際はわかっていない。わかったような気にさせるというのは、実際そのときは正確に理解しているが、時間を置くと、記憶というのは比喩そのものしか採用しなくなって、かえって本質からは遠ざかる。
たとえば、とここで私は比喩を使うのだが、昨日出てきたニーチェの永劫回帰をプロ野球に例えると、立浪のバットの長さは瀬戸大橋よりも長くなり、谷繁のミットはマシュマロ並みの柔らかさ。そして観客は全員芝刈り機となるが、それでもゲームは成り立ち、しかしいつまでもゲームは終わらず、ボールボーイはドラゴンレーダーでボールを探さなければならない。ダルビッシュの球種は、天文学的数字となって、その正確な数はホーキング博士しか割り出せない。
と書くと、読んでいる人の頭の中には芝刈り機とホーキング博士しか残らないだろう。つまりそういうことだ。
ちなみにジョージ・コールマンのこのエピソードの真偽がわからないから、さっきちょっと調べていたら知恵袋かなんかで、
「ジョージ・コールマンなんかが何故マイルスのバンドにいたんですか?」
とか書かれていて、やはりかわいそうになってしまった。
※ちなみにこの文章は下書きも何もなしに、しかもニーチェなんかは書きながら出てきたから、もし私がコールマンでも、マイルスにクビにされないだろう。その前にバンドに呼ばれるかは置いといて。