意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

ブログの書き方を忘れた

昨日まで記憶の石という小説を書いていて、思ったよりも面白かったので夢中で書いていたら、それ以前のブログを、どんな風に書いていたかを忘れた。私は、多分これまでの文章を読んだ方ならおわかりになると思うが、書こう、と思ったことがあっても途中から脇道に逸れ、脇道は小道であったはずなのに、いつの間にかメインストリートのように振舞うという、ある意味で傲慢な書き方をしている。私は書く前に考えたことよりも、書きながら考えたことの方が面白いと思っているから、むしろ脇道大歓迎という感じで、ときには道のように見えるだけで本当は道ではないただの草むらのような場所を、ずんずんと進むこともあった。そういうときは知らないうちに脛が傷だらけになって、夜お風呂に入ったらひりひりと染みるのであるが、決してシリアスな怪我ではない。

ところで、以前の私はこんなに比喩を乱発しただろうか?

私はこのブログを始めてから、3日くらい前までは、ずっとひとつのことを考え続けてきたような気がする。もちろんひとつひとつの記事はばらばらだが、全ての記事が、「前回のつづき」のような感覚で書き始めたような気がする。もちろん気がするだけで、読み返したとしても、そこに何の共通点も見出せないだろう。読み返す気もないが。

とは言っても、意図せず読み返してしまうこともあり、この前いくつか読んだが、何が書いてあるのかよくわからなかった。おそらく読んでいる人も、同じような感じなのではないだろうか? しかしだから何が悪いとも思わなかった。私はどこで「わからない方が面白い」と書いた気がする。もちろんわからなくて、さらにつまらない、という文章だってたくさんあるだろう。しかし「わかる面白さ」と「わからない面白さ」を比べれば、後者のほうが面白さの度合いは大きい。わかる、とは言い換えれば解釈できるとか、分析できる、ということだ。

でも私がそう主張したところで、意味わかんない人はわからないだろうし、なんでそんな突き放すことを言い出すのかと言えば以前友達に
「どうして飯村は、テレビ観ないのに人を笑わせられるの?」
と言われたのを思い出したからだ。この友達はしかし、とてもいい人だから、この先ゆっくりと、テレビよりもずっと面白いことを一緒に考えていきたいと思う。