意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

イメージで考える文章、言葉で考える文章

最近拾い読みのような感じで保坂和志「小説の自由」を読んでいたら、面白い箇所を見つけたので、引用する。ところで、先日まで私は「小説、世界の奏でる音楽」というのを読んでいて、それは同じシリーズの三冊目で、一冊目が小説の自由だ。つまり私はこれはすでに一度通しで読んでいて、しかしだいたいの内容は忘れている。とは言ってもこないだまでその続きを読んでいたのだから、なんとなくその雰囲気などはわかっているつもりでページ繰ったが、そうしたら全然違う。

これが何年続いた連載だったのかは、確認していないからわからないが、分厚い本が三冊も出ていたから、長く続いた。そうすると人気漫画の連載と同じように、最新刊を読んだ後に急遽一巻に戻って絵を見ると、頼りないような、心細いような感じを抱く。漫画だと最新のものよりも線が細くて背景の書き込みが多い。主人公の顔つきも今と全然違う。手応えも何もないところから始めるからなのか、自分の力を出し尽くそうと肩に力が入るからなのか。私は今は漫画をほとんど読まないから、やはりこう書いてしまうのが不安で、つい「ほとんど読まない」なんて書き加えてしまうのだが、そんな感覚は確かに記憶の中にある。以下引用。 


イアン・ロバートソン著『マインズ・アイ』(茂木健一郎監訳)という本にこういうことが書かれている。まずは、次に書いた二つの文章を黙読して、それに要する時間を計ってみる。

(1)先頭を行く牛が落としたばかりの、まだ湯気が立っている糞に肢(あし)を取られながら、乳房を重たい鐘のように揺らして牛の群が歩いていた。牛の息が静かな霜の降りた空気に立ちのぼり、昇る朝日のりんとした輪郭をかすませた。最後の牛が、肢の間に突進してきた茶色のねずみを蹴り上げた。

(2)比較的やせた高知の方が、牧羊は盛んだった。だが、牧羊の収益は徐々に薄くなり、牧草地も次第に野生の状態に戻りつつあった。隣町からやって来る訪問客は喜んだが、牧羊で生計をたてる農家にしてみれば、これは悲劇以外の何ものでもなかった。

この二つの文章を読むのに、イメージで考えるタイプの人は(1)を読む方に時間がかかり、言葉で考えるタイプの人では、同じか(1)の方がやや早く読める。また、イメージで考える人の場合、言葉で考える人と比べて文章を読むのに、二~三割余計に時間がかかる。――というのだ。
 

引用おわり。いかがだっただろうか? 私はどうやらイメージで考えるタイプのようである。もちろんこの後保坂自身も書いているが、このイメージ、言葉で二分するのは乱暴だし、たったこれだけで判明するものでもないから、心理テストのノリでやってもらえば、幸いである。というか、さっきから「いかがだっただろうか?」とか「やってもらえば」なんて書いているが、とても違和感がある。この場は私がこれをやってみてどう感じたかを述べる場であって、別に読み手に挑戦してもらおうなんて思っていない。いや、やってもらうのはもちろん自由だが、私の方から促すのは変だ。変なのに、こういう文の流れになると、感想を聞く素振りを見せないと、話が進まない。

違和感と言えば、私が読んでいる「小説の自由」は文庫本で、何かで押さえていないと、すぐに閉じてしまう。しかも私はスマホでこれを書いているから、両手はすでに塞がっており、仕方なく右足でページを踏みつけながら写した。前屈みの体勢になると膝で本が隠れてしまい、頭を横にずらして、のぞき込みながら、1単語ずつ拾っていく。果たしてこれが、文章を綴る正しい姿勢なのだろうか!

そういえば、私は私以外の人の書いたブログもいくつか読ませてもらっており、その人たちは大抵は私よりもたくさんの本を読んでいる。そういうののなかで、本を押さえるアイテムなんかを紹介しているページもあった。私の勝手な想像だが、そういう人は、言葉で考えて本を読むタイプの人ではないだろうか。一方私はイメージ派である。

イメージ派の私はまず「重たい鐘のような乳房」でつまづいてしまった。鐘、と言えば私はまずお寺の鐘を思い浮かべたが、私の実家のそばにはそれなりの鐘があったが、子供時代は自由に叩け、私は調子に乗ってゴンゴン鳴らしまくったが、いつの頃か「一回鳴らしたら三十秒以上あけてください」と貼り紙がされ、私は自分の子供が鐘を鳴らす姿というのを、見たことがない。

なんてことを考えているからずっこけているわけだが、多分この鐘のイメージは少なくとも後半は、ここで書きながら思ったことで、つまづいた、というのは牛のおっぱいと鐘がうまく結びつかなかったことだ。もしくはおっぱいが邪魔して、鐘のイメージが出てこない。それでも、この比喩は好きだ。牛のお乳がたらふく詰まっているのが伝わってくる。鐘というのは昔話で閉じ込められたらなんていうエピソードもあるから、相当重いのだろう。その後の太陽が霞む感じも、ネズミが蹴り殺されるシーンも好きだ。

一方(2)の文章は読み終わった後に、「で?」という感じになる。もちろんそれは(1)の方も同じなのだが、私はこちらは、もうここで終わっても構わないとすら思える。結局私はストーリーよりも、文のひとつひとつの書き方に惹かれるタイプなのだろう、乱暴に言えば。

もちろんこれはどちらが正しいとか、優秀だという意味ではない。(1)が優れているように感じたら、それは私がそちらの方が好きだからである。保坂和志は(1)の作家としてチェーホフ、(2)は三島由紀夫志賀直哉を分類していた。私は三島と志賀は前に読んだきりだから、どういう印象だったか覚えてもいないし、チェーホフの魅力はあまりわからない。