意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

フォークランドの木

とあるコンビニのチュウシャジョウでコーヒーをすすっていると、私はコンビニのカウンターで
「あとホットコーヒーください」
「小さい方ですか?」
「はい」
というやり取りのあとに店員(40代・女性)は、紙コップをかつん、と音を立ててカウンターの上に置いた。私はなんだかそれが検尿用のコップに見え、もし
「大きい方です」
と答えたら何が出てきたのだろう、と気になった。私は数日前に健康診断を受けたばかりであった。ちなみにコンビニとは、セブンイレブンのことである。

コーヒーをすすりながら眺めた光景であるが、向こうのほうの建物に横断幕が下げられていて、
「ソラー......」
と書かれていて、ソラー以降が木に隠れて見えなくなっている。木とは、私はその名称を答えることは出来ないが、落葉樹である。ざっと見渡すと落葉樹と常緑樹は半々といった割合で点在している。私はそういうカテゴリで風景を見たことがなかった。ちなみに、冬に葉を付けていても、春になれば葉を落とす木の種類もあり、その場合は落葉樹となるらしい。だが、どちらにせよ文字を隠す木は落葉樹に変わりなかった。

木についての描写を続ける。

木は、白い空に向かって伸び、分かれていく枝の本数は多く、突き立てたフォークのような形をしている。フォークランドではない。しかし、フォークよりも突起はずっと多く、突起の多すぎるフォークについて、フォークランドと呼ぶことにルールを変更すれば、この木は「フォークランドのような木」と呼べそうだ。

フォークランドの木は、上へ行くほど細くなって本数をどんどん増やし、これがもし写生会かなにかだったら、とても骨の折れる作業になるだろうと思った。私は写生会という行事が好きではなかった。重い画板や水入れを肩から下げて列をなし、画板の裏には教師から支給されたばかりの画用紙が入っており、それが外に飛び出ないために、細いベニヤの板が真ん中にとめてあるが、これは驚くほど簡単な力で取れてしまう。男の子はそれを剣に見立て、チャンバラを始めるから、故意にそれをもぎ取る生徒もいた。

フォークランドの木を描くときには、細かい枝先を先に書くべきなのか、それとも白い空から塗っていくべきなのか、そういうのを教えてくれる先生は誰もいなかった。写生会は三クラス合同で行われているから、教師はひとりではなかったはずだ。また、途中で具合の悪くなる人だっているから、保健の先生だっていたはずだ。保健の先生は、もしいくらか絵に対する知識があったとしても、やはり担任の手前あまりアドバイスできなかったのかもしれない。保健の先生は、小学五年まではオバサンの先生だったが、六年からは若い人に変わり、その人は長野県の出身だった。

しかし、私は思うのだが、フォークランドの木について枝を書くか空を書くかではなく、そもそも「書かない」という選択肢もあって、それが正解のような気もする。私たちはあらゆるものを絵にできるように錯覚、つまり書ける・書けないはテクニックの問題のように解釈するが、やはりある程度の興味というか、せめて興味につながるとっかかりがなければ、どんなにテクニックのある絵描きでも、絵にすることはできないのではないだろうか。もっと抽象的に言えば、何かのプロとか達人と呼べる人は「できる」の範囲が横方向ではなく、縦方向に長い人を指すのではないか。

ところで話は変わるがソラーという言葉について私が思い当たったのは、「課長島耕作」の、島耕作が勤めるのは初芝電産という会社であったが、そのライバル会社がソラーという企業であった。ソニーのもじりである。中沢部長というのが島の上司でいて、その人は最終的に社長になるのだが、その最後の試練として、アメリカのコスモス映画の買収を成功させるというのがあったが、やはり名乗りを上げた別の企業もあり、コスモス映画の重役は実はその企業の担当者とつながっており、さらには島サイドにもスパイを潜入させるという卑劣な手段に出るが、最後は大町久美子の活躍もあり、(その間島と大町は性行為をするが、その声が大きく、隣の部屋の中沢部長は閉口する)逆にそのスパイを泳がせて、当初の計画よりもずいぶん低い金額で買収することができたのである。確かコスモス映画のセットの一部に火をつけ、資産価値を落とすという荒技だった。

ちなみにそのライバル会社とはソラーではなかった気がする。