意味をあたえる

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努力の理想

一昨日の記事について、としぞう (id:gerge0725)さんに下記の記事で取り上げてもらった。

http://gerge0725.hatenablog.com/entry/2015/01/10/074623

冒頭の「あれ、見慣れたIDが」というのが、雑踏の中で顔見知りでも見つけたような言い方で、私はとても好感を持った。記事全体を読んでも、私の書いたことに配慮しつつ自分の考えもしっかり述べているという感じで、実際に顔を合わせて意見を言い合っているかのような雰囲気があった。

なので私は早速、それは朝だったか昼だったか、私は今日は仕事だったので朝か昼かのどちらかなのだが、忘れたが、思い出したが、朝に記事を読んで色々考え、昼休みにコメントを書いたのだ。

しかしはてなブックマークとは非情であり、少しでも多くのブックマークを稼ぐためには、馴れ合いなどただの足枷に過ぎないと言わんばかりに、私のコメントを途中でぶった切った。もちろん私はコメントに文字制限があることは知っていて、書きながらも入りきらないかもしれないと思っていたが、ボタンを押しても何のエラーも出ないので、入りきったと安心したのだった。省略されたのはちょうど「見慣れた、と言われて嬉しい」みたいな文句だった。

それで、としぞうさんの記事を読んで、思い出したことがあったので、以下に書く。

私は高校一年生のときに、体育の授業でマット運動のときがあり、それは校内の武道場で行われた。体育の教師はレスリング部の顧問で、武道場は彼のホームグラウンドであった。ちなみにその教師を初めて見たときに、私は
林家こん平に似ているなあ」
と思ったが、クラスの圧倒的多数は「パンチョ伊東」に似ていると思っていた。私は野球にあまり詳しくなかったのである。

マットの授業ではハンドスプリング、あるいはヘッドスプリングができなければ赤点、と説明された。しかし私はどちらもできなかった。ハンドスプリングとは、バク転の逆回りのことで、頭と背中を地面につけずに回るやつである。ヘッドスプリングは、頭のみつける。私の記憶では、確か小学三年生くらいでもすばしこい子は普通にやっていた。私はとても危なそうに見えたので、後ろでんぐり返りをまっすぐやることなどに重点を置き、教師の評価を狙った。

それから私は高校一年生になって、そうしたらハンドスプリングができなければ落第してしまうので焦った。とは言うものの、私と同じようにできない人もいて、私よりもデブの人もいたから、私は友達とへらへらしていた。しかしその友達はヘッドスプリングができていたから、へらへらしていただけの話だった。ちなみに当時の私はそれなりに太っていて高三で一念発起して痩せた。

最終的に、できない人は補講ということになったので、ある日の放課後に、私は武道場に行かなければならなかった。私は出来ない人たちと急拵えで仲良しになり、一緒に行った。レギュラーの友達はみんなクリアしていたので、入り口で必死に蹴上を練習する笑い、やがて帰った。蹴上とは、本当に蹴上という名前なのか自信はないが、ヘッドスプリングをやるためには必要な動作であり、寝転んだ体勢から胎児のポーズに移行し、そこから勢いよく足をお尻の下に入れ、反動で立ち上がる動作のことである。成功すれば運動選手のように格好良いが、できないと陸に上げられた海老のように間抜けなのである。

教師の評価は明確で、補講の時間内にハンドスプリングができれば3、ヘッドスプリングで2、どちらもできなければ1であった。数字は五段階評価の数字で、すなわち1は落第、留年の数字である。4や5はどうだったかは覚えていない。

結論を言うと、私はヘッドスプリングはできるようになった。最初はただひたすらに柔道の受け身を取っているだけのようであったが、何回目かにいきなりきれいに着地できるようになり、マットが小気味よい音を立てるようになった。教師はその瞬間、
「2!」
と大声で言った。今までだらだらと流れていた汗が、急にさわやかで、心地良いものに感じた。それから教師はヘッドスプリングもできるようになれば、評価は3になるがどうするか? と訊いてきた。まだ時間はあったが、私は2でもう十分だったので、帰ることにした。ヘッドスプリングさえできれば、もうその時点で帰るのは自由だった。

もちろん最後まで何もできなかった人もいた。私よりも太っている人はできなかった。そういう人たちは、私は帰りがけに見かけたが、武道場の中を走らされていた。それで最終的に赤点を免れるのである。

私はこれこそが、努力の理想なのではないかと思った。つまり努力とは能力のない人たちが、それを埋めるための最後の手段であり、それにも関わらず今の世の中では、能力のある人、与えられた要求を問題なくこなせる人がさらに努力してしまうから、そうでない人がどんどん苦しくなってしまうのである。だから評価というのはどこかで上限を設け、そこから先はどんなに結果を出しても同じ、という風にしたらどうか、とか考えた。