意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

小学校

私の子供は私が小学のころに通っていたのとおんなじ小学校に通っている。校舎も、内装なんかは変わっているが、骨組は同じなので、昨日はたまたま子供を迎えに行ったのだが、懐かしい。ただし、全部が全部懐かしいわけではなく、特に渡り廊下、渡り廊下は小学校も中学校も、高校にもあったから、どれがどれだかわからなくなっている。渡り廊下の記憶というのはどんどん上書きされてしまうようで、だから、この前子供と一緒に渡り廊下を渡り、そこに字がうまい子の硬筆が掲示されていても、「こんなところだったっけ?」と思ってしまった。女の先生が近くを通りかかっても、とても先生には見えない。

小学校の渡り廊下でいちばんの思い出と言えば、運動会のとき、私の学校は赤、青、緑組に分かれるのだが、緑組は応援席が外便所の前だからなんとなく臭くて、いつも第三位だったが、そのジンクスは私の学年があがるにつれて崩れて優勝するようになった。一方教師の中には、所属したチームが必ず最下位になるという疫病神のような教師がいて、私が五年生のときの運動会で、理由は忘れたが昼休みに渡り廊下を歩いていたら、青組の応援団長がおいおい泣いていて、なんだろうと思って見ていたら、
「Y先生が青組だから、絶対に三位になる」
と嘆いていて、そばには男の、担任なのか、ただの青組の教師なのかが、困り顔で、
「そんなことないよ、諦めなければ、絶対優勝できるって」
と一生懸命団長を励ましていて、見物だった。とうぜん青組は三位になった。Y先生はふとっちょの眼鏡で、どちらかと言えば福の神のような外見だったのだが。

その渡り廊下を北側に向かって渡りきり、そうすると右側に階段があってそれを降りると一階だが、そこは特に何もない空間で、私は卒業式当日、そこで待機させられたことを今でも覚えている。そこをまっすぐ行くと体育館で、私は六年三組だったから、順番は後の方だったから、そんなところで待たされたのだ。私たちはアイウエオ順に並んでしゃがみ、わくわくしながら入場の合図を待っていた。私は昔の苗字は早い方だったので、そのクラスでは二番目で、一番目の人は病弱でよく学校を休んだから、私が一番になることがよくあった。

そのあと私は中学生になると、他の小学の人も集まり、私はなんとアイウエオ順で六番まで下がってしまった。「あ」で始まる人が四人もいたからである。そして、ここからが傑作なのだが、小学で一緒だった「アオキ」という人が、その人は六年間ずっと一番で通ってきて、中学も同じ調子で行くと思い、入学前から上履きには出席番号「01」と記入していたが、「アイダ」という陸上部の男と同じクラスになってしまい、あわてて「02」に直したのである。直し方がペンで横線を二本引いて隣に書き直すという大変お粗末なもので、私はそれを見たときに大声で笑ってしまった。同じ小学出身だったから、尚愉快であった。


※お知らせ

こちらで小説を連載しています。良かったら読んでみてください。