意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

やっぱり個の手触りについて考える※

私は前回の記事で「個の手触りとは投射された自己の轍である」と書いたが、「轍」という言葉をつかった途端、その先が続かなくなった。轍といって真っ先に浮かぶのがサザンオールスターズの「希望の轍」で、あれは烏帽子岩がなんとかだという歌と記憶する。烏帽子岩とは、烏帽子のような岩なのか、岩のような烏帽子なのか。とにかく夏の終わりの歌で、私があの歌で思い浮かべる光景は伊豆の海水浴の帰りの国道135号線で、暗くなり始めるとあの道は正気とは思えないほど渋滞し、連なったテールランプが視界の端の端まで続き、暗澹とした気持ちになる。うっかり下田なんて行った日には、熱海まで引き返すだけで大仕事だ。熱海には直角に曲がる道があり、そこにはジョナサンがあって、私はそのピンク色の建物を見る度に

「ああ、熱海にきたなあ」

と思う。

それで、これから話すことがどれくらい「個の手触り」と関係するかはわからないが、フィクションとか物語を植物に例えたらどうなるか、ということをいつからか考え始めた。その場合、個の手触りとは、根のイメージになるのではないか、と思ったのだった。つまり、茎や葉や花が虚構だとして、最初に目に見える部分であるが、それを支えるのは現実である。「手触り」というのは、例えば立派な木を見て、

「これだけの物を支えるのだから、相当な根が張ってるに違いない」

と思わせる技術である。

と、ここまで書いたが、これはちょっと違うな、と思ってきたのでこれは個の手触りの話ではなくする。しかし、何らかについての話ではあるに違いない。

「根っこ」から連想する話が私の中に二つあり、今日は片方だけ披露するが、それは美味しんぼの話で、あるときフランスに住んでいる日本人が、ホームシックにかかって日本に帰りたいと言いだし、しかしそれなりの立場の人らしく、帰りたいからと言って帰るわけにはいかない。それで、山岡と栗田が料理で解決しましょう、となるのだが、ナゼ料理の話になってしまうのかといえば、それが美味しんぼアイデンティティだからである!

それで山岡と栗田は究極のメニューとして、もう目一杯のフランス料理でもてなすのだが、日本人は、
「とてもおいしい。まさかここまでのものが日本で食べれるとは思わなかった。てことは、フランスに住む必要ないですよね」
と言い出し、逆効果なのであった。山岡と栗田は一気に顔が青ざめる。

そこで至高のメニュー引っさげて海原雄山が登場。雄山はなんと、オニギリとおつけ物、というシンプルなメニューで対抗する。と言っても、お米は完全無農薬、米を炊く水は富士山から朝一番で汲んだ地下水、みたいな徹底したこだわりぶり。これを食べた日本人は涙をぽろぽろこぼし、
「この美味しさがわかって私は安心した。私の根っこはしっかりと日本にある」
と言って感激した。雄山は山岡に「お前は何もわかっていない。今すぐ辞表を書いて皆の迷惑になる前に蒸発しろ!」と罵倒し、山岡は歯ぎしりするのである。

ところで私は生まれも育ちも埼玉なので、この話の意図があまりわからなかった。


※小説