意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

書ける文字数には限りがある

私は今日の午後、いつも読ませてもらっているブログにコメントを書いた。長くなるだろうと予想しながら書いたら、実際に長くなった。仕事中だったので、仕事の休憩中に書き、休憩が終わりそうなところで筆を置いた。「筆を置きます」と書いて締めた。

コメントの中で私は、
「書いたものに対して反響が欲しいのなら、文章力を磨くなりしてください」
と述べた。述べながら私は、少し前の自分の記事で、村上春樹の「文章は才能」という言葉を取り上げたことを思い出した。私以外にも取り上げている人はたくさんいて、私はそのうちのいくつかを読んだ。そのどれもが「文章は才能」に肯定的だったと思う。

私はいったいどっちだったっけ? と思ったが思い出せない。どちらでもなかった気がする。そのときの文章を読み返せばいいのだが、読み返したところで、それは何の担保にもならない。私の中に一貫したものはない。あるのかもしれないが、そういうのはできるだけ少なくして身軽にしておいた方が良い、と思う。

それで「文章は才能」についてだが、それを努力等ではどうにもできない能力、とするなら、これ以上何を書けばいいのだろうか。文章は思考だ。文字の連なりが意識を形作る。「才能」という言葉を簡単に使ったら、もうその先には進めない。

話を変えて、例えば人気者のブロガーというのがいたとして、その人は文章の才能に恵まれていると仮定する。仮定しなくても間違いなく才能はある。しかし、才能があるからと言って、いつまでも同じ調子で書けるわけではない。いつまでも同じに書く才能、に恵まれれば書き続けられるのかもしれないが、それは才能とはちょっと違うと思う。

ちょうど昨日のニュースで、スポーツニュースを見ていたら、広島に移籍した投手が、
「自分に残された球数は限られている」
というようなことを語っていて、これはそのまま物書きにも当てはまると思った。つまり私たちに残された文字数も限られていて、私たちはもっとそのことを意識しなければならないのである。

意識しなければならない、なんて簡単に書いてしまったが、私は一体どこまでそれができているのだろうか。限りが決まっているなら、ジタバタせずに諦めて書けるところまで書き続けるのが正解かもしれない。しかし私はどうにか少しでも延命できないかと、模索しながら今日もここまで書けた。


※小説を書いています。