意味をあたえる

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文体(?)

しばらく間があいてしまったので、第何回目まで書いたのか、忘れてしまった。このカテゴリの記事では、私が影響を受けた小説や文章を紹介していく。

 

今回は、エイモス・チュツオーラ「やし酒飲み」。

 

「〈頭ガイ骨〉一家の家を求めて」

 

 市場から十二マイルばかり歩いた時、紳士は、今までわたしたちが歩いてきた道路からそれて、底なしの森に入って行ったので、わたしも彼の跡をつけてその森へ入って行った。しかし、跡をつけているのを悟られたくなかったので、わたしは、ジュジュの一つを使って、トカゲに姿を変えて、跡をつけて行った。このようにして、この底なしの森を二十五マイルばかり行ってから彼は、身体の各部分をひとつ、ひとつもぎ取っては、それを所有者に返し、代金を支払って行った。

 それからさらに五十マイル森の中を進んで行って、彼の家に着くと、彼はその中に入り、わたしも、トカゲだったので、一緒に家へ入って行った。穴ぐら(家)に入ると彼はまっ先に娘のいるところへ行ったので、わたしはそこで、タカラ貝を首に結びつけられた娘が牛ガエルの上に坐らされ、「頭ガイ骨」が、彼女の後ろに立って見張りをしているのを見たのでした。彼(紳士)は、娘がそこにいるのを確かめてから、家族みんなが仕事をしていた裏庭へ出て行った。

 

〈頭ガイ骨〉一家の家でえんじた隠密の、見事なはなれわざ

 

 この娘を見た時、わたしは、彼女を穴ぐらまで連れてきた、そしてまた市場から穴ぐらまでわたしがその跡をつけてきた「頭ガイ骨」が、裏庭へ行ったのを見届けてから、元の人間の姿に変り、娘に話しかけてみたが、彼女は、全然答えることができず、ただ身振りで、しきりに深刻な事態にあることを伝えようとするのだった。その時は、運よく笛をもって見張っていた「頭ガイ骨」は、ぐっすりと眠っていた。

 そこで娘に手を貸して、カエルの上に坐らされていた娘を立たせようとしたのだが、驚いたことに彼女の首のタカラ貝が、たちまち奇妙な音をたてはじめた。その音をきいて、見張りの「頭ガイ骨」は、目をさまし、笛をふいて残りの者に知らせると、彼らは総出で、またたくまに現場に殺到してきて、娘とわたしをグルッととりかこんでしまったが、わたしがそこにいるのをみるとすぐさま、その一人が、そこからそれほど遠くない、タカラ貝を一ぱい入れてある穴の所へ走って行って、穴からタカラ貝を一つとり出し、わたしの方に、駆け戻ってきた。群がっていた連中はみな、わたしの首にも、タカラ貝を結びつけてやろうと思っていたのだが、その前にこっちの方から先てをうって、わたしは空気に姿を変えてしまったので、それ以上わたしを追跡することができなくなり、一方わたしの方は彼らの行動を看視できたのだ。そして彼らの行動を看視していた結果、その穴にあるタカラ貝が、彼らの力の根源であり、それを首につけられると、どんな人間であっても力が抜けてしまい、たちまち唖になってしまうのだということがよくわかった。

 わたしが、とけて、空気になってしまってから一時間以上たって、「頭ガイ骨」たちは、見張りの「頭ガイ骨」だけをのこして、全部裏庭に引き上げて行った。

 彼らが裏庭へ行ってしまったのを見届けると、わたしは、また元の人間の姿にかえり、カエルから娘をつれ戻そうとしたが、彼女に触れるとたちまち首のタカラ貝が、大きな音をたてて鳴りはじめ、その音は、四マイルも離れた人の耳にも、まっさきにとびこむほどの大きさだったので、見張りの「頭ガイ骨」の耳には、すぐさま入り、わたしがカエルから彼女をつれ出したのを見て、彼は裏庭にいる他の仲間に、笛をふいて知らせた。

 合図の笛をきくと、たちまち「頭ガイ骨」たちは、一家総出で、現場にかけつけてきたが、時すでにおそく、わたしが、森に向けて穴ぐらを出立した後の祭りだった。しかし、わたしが森の中をまだ百ヤードも行かないうちに、彼らは穴ぐらから駆け出し、森の中をグングン迫ってきて、わたしは、娘ぐるみでドンドン逃げるのだが、その距離はみるみるちぢまって行った。「頭ガイ骨」どもは、奇声を発し、大きな石のように地面をころがりながら、森の中を迫ってきて、すんでのところで私を捕らえそうになり、また仮に、そのように逃げまわってみても、所詮やがては捕まってしまうことが明らかになった時、わたしは、娘を子ネコに変えて、わたしのポケットの中に入れ、わたし自身は、英語でいえばさしずめ「スズメ」にあたる、とても小さな小鳥に姿を変えることにした。

 一回休憩。しかし、先月よりも暖かくなってきたのか、指先はさほど冷えない。

 小鳥に姿を変えたわたしは、大空を飛んでいったが、飛んでいる間も、娘の首のタカラ貝は、相変わらず音をたて通しで、音をとめようとするわたしの努力も、すべて、無駄な骨折りにすぎなかった。娘をつれて家にたどり着いた時わたしは、娘を元の娘の姿に変え、わたしも人間の姿に戻った。娘が帰ってきたのをみた父は、大そう喜んで、「なるほどあなたは、かねてわたしに言った通りのやおよろずの〈父〉だ」と、言って感嘆した。

 しかし娘が家に帰ってきた時、首のタカラ貝は、相変わらず恐ろしい音をたて、また娘は口が利けず、家に帰れたうれしさを身ぶりで示すだけだった。せっかく娘をつれて帰ってきたというのに、かんじんの娘は口も利けず、食べられもせず、かといって首のタカラ貝をはずすこともできず、おまけにタカラ貝の恐ろしい音は、誰にも休息や睡眠をとらせなかったのだった。

 

「やらなければならない大ばくち」

 

 娘の首からタカラ貝のロープを切りとって、口を利いたり食事のできるようにしてやろうと八方手はつくしてみたものの、駄目だった。とうとう、これが最後と、わたしは、タカラ貝のロープを切断しようと死力をつくしたのだが、音をとめるのが精一杯で、貝を首からとり除けることまではとてもできなかった。

 わたしの苦労をみていた父は、大いに感謝しながらも、「あなたは自分のことを、この世のことはなんでもできる神々の〈父〉だと、言っておられるのだから、のこりの仕事をぜひともやりとげてほしい」と、くりかえしわたしに、懇願するのだった。彼の話をききながら、わたしは、やおよろずの神の〈父〉という名の手前、とても恥ずかしくて、穴にも入りたい心地だった。というのは、もし「頭ガイ骨」の穴ぐら〈家〉に戻れば、奴らはきっとわたしを殺してしまうだろうし、それに森林の旅には常に危険がつきまとっていたし、また「頭ガイ骨」からじかに、首のタカラ貝をはずして、娘が口を利き、食事もできるようになる方法を聞き出すことなど、とてもできそうにないといったことを、心の中で思い浮かべていたからだった。

 

「〈頭ガイ骨〉一家の家に戻る」

 

 娘を父の家につれ戻してから三日目に、わたしは、さらに探検をつづけるため、底なしの森に舞い戻ることにした。そしてあと一マイルほどで「頭ガイ骨」の穴ぐらに到着するという地点にさしかかった時、娘が、その時はまだ彼は完全な紳士であった市場から、「頭ガイ骨」一家の穴ぐらまで、その跡を追いつづけた例の「頭ガイ骨」を見かけたので、わたしはすぐさま、トカゲに姿を変え、彼の近くの木に登った。

 彼は、二本の木の前に立って、目の前にある木から、すぐ目の前の葉を一枚切りとり、その葉を右手にもったまま、「娘は、まんまと、奪い返されてしまったが、この葉を娘に食べさせない限り、娘は永遠に口がきけないのだ」と、ひとりごとを言った。そういいおわると彼は、その葉を地面に投げすて、それから今度は、目の前の木と同じ場所にあった、まだらの木から、まだらの葉をもう一枚切りとり、今度は左手にもって「このまだらの葉を娘に食べさせない限り、首のタカラ貝は、永遠にはずれないし、永遠に恐ろしい音をたてつづけるのだ」と、つぶやいた。

 そういい終わると彼は、その葉を同じ場所に投げすてて、 跳びはねるようにして立ち去っていった。はるか彼方まで、彼が行ってしまったのを見定めてから〈幸いなことに、わたしはそこにいて彼の仕草を全部みていたので、二枚の葉を投げすてた場所もよく知っていた〉わたしは元の人間の姿になり、二枚の葉を捨てた場所へ行って、それを拾い、急いで家へ持って帰った。

 家に着くとすぐわたしは、二枚の葉を別々に料理して、彼女に食べさせた。驚いたことに娘は、みるみるうちに話し出すではありませんか。次にまだらの葉を食べさせると、「頭ガイ骨」が首に結びつけたタカラ貝が、これまたまたたくまに自然にはずれて、消えてなくなってしまった。この驚異のわざをみていた両親は、お礼に五十タルのやし酒と、娘をわたしにめとらせ、住居として二部屋、提供してくれた。このようなわけでわたしは、その娘を、あとで「頭ガイ骨」になった市場の完全な紳士から、救い出し、娘は、その日から晴れてわたしの妻になったのでした。そして以上が、わたしの、妻をめとるに至った話である。

 

岩波文庫 土屋哲 訳)

 

私はここまで書き写しながら、なんとなく(ドラえもんに似ているなあ)と思った。私が子供のとき、ドラえもんを見ていてよく思ったのは、いちいち新しい道具を出さなくても、今までの道具をうまく組み合わせて使えば、大抵のトラブルは解決できるんじゃないか、ということだ。ドラえもんのび太のことを、「道具の使い方に関しては天才的だ」と評価するが、それ以前の問題ではないか、と思う。ひみつ道具だって、いくらかコストはかかるのだろうし。「やし酒飲み」も同様で、主人公はジュジュを使って(これは魔法のようなものだ)、トカゲや鳥に変身できるのだから、最初からそうすればいい、と読んでいて思った。そして、後半のご都合主義である。娘の首に巻き付いたタカラ貝をとるために、再度森へ入っていくのだが、そこで偶然に「頭ガイ骨」をみつけ、「頭ガイ骨」は呪いを解く方法をひとりでつぶやくのである。ここを読むと自然と笑ってしまう。作者は、どういう話の展開で娘の呪いを解くとか、そういうのには興味はなく、さっさと書き進めてしまいたかったようだ。

 

「やし酒飲み」は、私たちが普段読む、「小説」や「物語」には、いかに理屈が溢れかえっているか、気付かせてくれる。小説や映画のレビューを読んでいると、伏線がどの程度回収されたとか、ストーリーに無理がないか、キャラクターがどうこうとか、そういうのがよく目につく。それが全く意味が無い、と否定するつもりはないが、たぶんそういうのはひとつの流行りのようなもので、そういう押さえる部分を押さえていれば、評価する方も、安心して点数をつけることができるし、それに対してお金を払ったり、受け取ったりするほうも、同様だ。お金を払うときに、それは作品そのものに対してなのか、それとも点数に対してなのかは、普段からなんとなく意識しているし、永遠のテーマなのだろう。難しいことはいい、点数にだけお金を払えばいい、という考えはそこかしこで見かけて、往々にして作品派はそれに負けてしまうけれど、完全に消え去ってしまうことはない。私が「やし酒飲み」を対して苦労することなく、ネットで簡単に入手できたのも、その証である。