意味をあたえる

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小島信夫「菅野満子の手紙」(3)

ようやく先ほど読み終わった。最近はあまり読書する時間が確保できず、クライマックスに迫るにつれて、読み進むページの厚さは減った。「クライマックス」という言いぐさは、いかにもこの小説には相応しくない。私はいつかこの文章を読み返したときのために、以下のキーワードも残しておく。

「義妹は火曜にかえる 10分間 小説」

引用はあとがきから

 作品の中心に女流作家満子が書き送ったという手紙が出てくる。はじめのうちは話題となっているにすぎない。作者自身も、このような意味で中心的存在になってくるとは予想していなかった。ところが作中人物が満子の手紙なるものを問題にしはじめた。この言い方にはトリックがあるように見える。なぜなら随筆も含めて、いかなる作品においても、作者なくして登場人物は存在しないからである。しかし、また、人物なくして作品は存在しないといってもいいように思える。共存共栄である。情けないことのようだが、この共存共栄以外に何をアテにし得ようか。
 実在の人物は、傾き、浸水をかき出しながら船が進むにつれて実人物の仮面をぬぎすてはじめる。作者がそれを利用したというようなことは、いわないことにしよう。いずれにせよ、たぶん手紙というものが、その仮面をぬがせる力をもっているのであろう。

(p569 集英社)

作者は小説を船に見立てて、このあとがきを書いている。あまり余計なことを言わぬように、おそるおそる書いているような様子が、文面から伝わってくる。作品の中盤以降は、誰かしらの手紙とか報告のみで構成されている。その中に「菅野満子の手紙」も出てくる。菅野満子はすでに亡くなっている。

話の中で、何度か「寓話」が出てくる。同時期に連載されていたようだ。雑誌「すばる」の編集長が、
「「手紙」のほうが、ずっとおもしろいですよね」
なんて言うシーンがある。「すばる」が「手紙」で、「海燕」が「寓話」だったのだ。「寓話」ではあまりそういう話はなかった気がする。

読んでいる途中で、一度ならずあとがきに目を通し、そこに「フィクション」という言葉があり、読み終わったら、そこをブログで書き抜こうと思った。しかし改めて読むと、そんな言葉は一度も出てこない。この辺りを読み違えたのではないか、という部分を書き抜いた。