意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

盲腸vs尿管結石

朝から体がだるく、言葉がつぎつぎにあふれて仕方がない。相変わらず新しいスマホの日本語入力なので、もどかしくて仕方ない。朝いちばんに美容院へいき、8時15分に家を出たから余裕で着くかと思ったらぎりちょんだった。実際は8時20分は過ぎていた。洗濯物をたたんでいたせいだ。昨夜途中までたたんでイヤになったから、途中だったのだ。

「読みましたよ「意味をあたえる」」
「そうですか。ありがとうございます」
白い前掛けのそでに手を通しながら、私は頭を下げた。
「すごいですね。認識がすごい」
「はあ。そういえば、この前ブランキーの話したじゃないですか? 帰ってから書いたら、けっこうコメント付きましたよ。やっぱりファン多いですね」
「それは読んでいないですね」
と美容師は答えた。本当は読んだのかもしれない。

それからブランキーの話をしているうちに私の髪の毛はみるみる短くなり、仕事の話になって、病気の話になった。私が5年前に尿管結石になった話をすると、美容師は、自分は盲腸になったことがあると言った。私はなったことはない。薬で散らしたんですか? ときくと、
「かいふくしました」
と答えた。私は最初「回復」かと思ったが、「開腹」のほうだった。
全身麻酔ですか?」
「いや、首から下だけ」
「じゃあ、大変だ」
「効かないですよね。部分麻酔って」
「わかるんですか? 切られてる感じとか」
「わかります。気持ち悪いですよ。医者は、手術室内って音楽かかってるんですけど、「音楽でも聴いててよ」なんて言うんですよ。馬鹿じゃねえのってかんじです」
私はそのときシャンプーをしてもらっていて、仰向けになり、顔には紙を貼られていた、キョンシーのような状態だった。キョンシーのような状態、とは今書きながら思いついた。キョンシーは、私はあまり熱心に見ていたから思い出せないが、スイカ頭というスイカのような頭をした少年が、ある日キョンシーに咬まれてキョンシーになってしまう悲劇であった。私が見たときスイカ頭はすでにキョンシーになっていたが、シリーズでは、キョンシーになる前のスイカ頭が活躍するエピソードもあったようだ。私はそれよりも当時はカトチャンケンチャンごきげんテレビのファンで、夏に志村がスイカを食べ過ぎてスイカ頭になってしまうエピソードがあって、しかし私はその放送時はキャンプに行っていて、見られなかった。後から妹や弟が
「とても面白かった」
と言っていて、悔しかったことを思い出してしまう。

美容師は帰りに
「「皆殺しのトランペット」でも聴きながら帰ってください」
と言った。そういう曲がブランキーにあるのである。

帰り際にまっすぐ家に帰ってもよかったが、家に義母がいたらお昼はどうするかとか聞かれたら面倒なので、スタバに寄ることにした。しかし、昨日のように、冷房が寒かったらどうしよう。私は喉も痛くなってきていた。あと、オシッコもしたくなってきていた。尿管結石の話をしたとき、私は
「チンコから石が出てくる」
なんて言ったが、「チンコ」と言うのが照れくさくて「ちんちん」にすればよかったと後悔した。オシッコは本屋で済ませることにした。トイレから出ると、目の前に昨日探していたホリエモンの本があったので、私は買うことにした。レジに行きかけてから引き返し、棚を確認すると、「エッセイ」のコーナーだった。

買ってからスタバに行き、さっそく読み始めると、つまらなかった。どう詰まらないのかは二つあり、ひとつは自叙伝ということで、書き出しが
「自分のもっとも古い記憶は...」
となっていて、そういう書き出しは今まで二回か三回は読んだことがあるので退屈だった。もうひとつは文章がつまらなくて、もっとしゃべっているときのような、自信満々な感じで書いて欲しいと思った。私はいっしゅん「やはりしゃべっているわけではないから仕方ないか」と思ったが、そう思うのは文章を貶めている行為(あるいはホリエモン自身も)に感じたので、やなりホリエモンの怠慢だ、と思い直した。

読んだのは堀江貴文著「我が闘争(幻冬舎)」です。