意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

謝る練習

昨日はシキミとプールへ遊びに行ったら、最初は曇っていたが徐々に晴れ、日焼けして今はTシャツが痛い。監視員の中にひとり女の子がいて、あまりかわいくはないが、面倒見が良さそうだ。多部未華子ちゃんにちょっと似ている。いや似ていない。書くまでは似ている気がしたが、今は今は似ていない。プールに飛び込んだ男の監視員が、
「これ預かってください」
と目薬を渡していた。女はプールサイドにいる。そこは波のプールで、危ないから監視員がたくさん集まり、何人かはプールに入る。目薬がプールに流れ込んだら危ないってことか。でもプールの水の量は相当だから、流れ出たってどうってことはない。男子の透けた下心がまぶしい。

シキミはプールが好きなようなので、私は子供孝行ができたと思い満足した。夕方になって、ほぼ休憩なしで遊んだ私はへとへとになった。学校のような建物があり、そのまえがシャワーになっている。そこでシャワーを浴びていたら、シキミが学校の初プールのときに、自作の「初プールのうた(うれしいの巻)」を歌っていたら、先生に怒られた、という話を私にした。私はそのとき自分がシャワーを浴びていたので、話半分で聞いていたが、初プールのうたを、先生の前でも臆せず歌えるなんて、なかなかガッツがあるなあと感心をしたら、クラス全員が、めいめいの「初プールのうた」を歌っていたらしい。それでうるさいから担任がぶち切れた、というわけだ。

それで先生は、静まったクラスメートを各自の席に座らせ、順番に反省の弁を述べさせたらしい。その話を聞いて、私は自分が小一のときに、没収された椅子を取り返すために謝る練習をしたことを思い出した。

椅子を没収する担任の話は以前もこのブログで取り上げた気もするし、奇しくももうひとつのブログで連載している小説でもその担任が出てくるところがあって、私はもうとっくに書き上げた話だから忘れてはいたが、体罰の記憶についてわざわざ教えてくれたので、またあの先生のところかな、と思って読み返したらそうだった。その前の「西門」ではもっとページを割いて登場した。

その女の先生は体罰こそなかったが、生徒が悪さをすると椅子を取り上げ、すでに椅子のない生徒については、引き出しを取り上げられた。体罰はない、と書いたが、私は校庭を走らされたことはある。引き出しを取られたら、さすがに学校生活に支障が出そうだが、隣の子にハサミを借りたりしてしのいだのだろう。私自身は引き出しは取られなかったので、細かいぶぶんはおぼえていない。しかし椅子は取られた。椅子を撮られると立て膝で授業を受けなければならないので、膝が痛くなる。取られた椅子は音楽室に持って行かれた。音楽室は、椅子で溢れかえっていた。椅子をとられたのが私だけでなかったのが救いだった。私は一年で二回か三回取られた。たまに移動教室で音楽室へ行くと、そこの椅子に座ることは許されたので、座ると太ももの後ろ側の筋肉がすーっと楽になった。そうなると、やはり椅子を返してもらいたくなるので、昼休みなどに担任の元へ出向き、小一なりに考えた反省の弁を述べるのだが、
「何を反省しているの?」
の質問をされ、それにうまく答えられないと、ダメだ、ということになってしまう。私は家に帰って親に相談し、親と一緒に「反省の弁」を作ってそれを必死で覚えた。

もし、今度は私のほうが親になったが、シキミに
「謝る練習をしたいからつき合ってくれ」
なんて言われたら、練習なんかさせないで、私自身が学校へ出向き、
「この子が悪さしたのは、親の私が悪いのです。謝れというのなら、代わりに私がいくらでも謝るので、勘弁してください」
と、頭を下げ続けるだろう。私は短気なので
「そういうのは教育って言わないんだよ!」
とか、腹の底では言いたいのだが、妻に波風立てるなと言われるので、大人しく謝ることにする。私の親も、おそらくそういう気持ちだったんだろうと思う。

私が椅子を取り返すために画策してから30年近く経ち、おそらく体罰は減ったのだろうが、こうしたところはちっとも変わらないので、私はあ然とする。どうして、低学年の子供に上手な謝り方を執拗に教え込むのか。私は昼間、「ふくらんでいる」というブログに記事を投稿したが、そこでも教育について書き、そこでは「洗脳」という言葉を用いた。反省の弁を述べさせることは、一体なんの洗脳なのか。将来会社員勤めしたとき、上司からの叱責にたえるためか。

そういえば私はそもそも学校が好きだった。勉強が好きだった。算数が得意だったのである。しかし学年が上がるにつれ、周りは勉強嫌いばかりになり、迂闊に「好き」だとか「楽しい」と言えない雰囲気になり、私も表面上は嫌いを装うようになった。そういうのも、「仕事は楽しくなくて当たり前。楽しいという人は変人」と思い込ませるノウハウだったのかもしれない。

話は変わるが、シキミには7歳上の姉がいて、ナミミというが、ナミミが中一のとき、冬にスキー教室があったが、浮き足立つ生徒をおさえるため、教師たちはサッカーのカードを導入した。クラスで悪さをしたらイエローカードを出して警告し、それでも直らなければレッドカードを出して、レッドカードを食らったクラスは、スキーに行けないのである。カードはクラス単位で発行される。つまり連帯責任である。その話を聞いたとき、私はどうして農民五人組みたいなことをさせてお互いを監視させ、わざわざクラスの雰囲気を悪くさせるんだと憤った。感情をうまくコントロールできない生徒だっているし、周りもそれを受け流すような器用なことはできない。片方の口で「イジメは許さない」と言いながら、もう片方でイジメを助長させているのである。そこまでさせて、行く意味なんかあるのだろうか。

集団をコントロールする術はすでに100年以上前に完成されていて、それにはもう改善の余地はないのだろうか。

ふくらんでいる — fktack


※小説「余生」第43話を公開しました。
余生(43) - 意味を喪う