意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章は自己肯定から出発する

家に本(ヘーゲル)を忘れてきてしまったから書くしかない。そういえば昨日の記事でコメントが3つついたが、それぞれが別の部分について取り上げていたので、私は
「ナイス!」
と思った。

私がヘーゲルを忘れた理由はおそらく昨晩若林奮という、彫刻家の本を読んでいたせいで、前に半分くらい読んで、そのまま放置していたらまた読みたくなったので読んだ。そうしたら、もう面白くて面白くて、て感じだった。前も面白かった。前は読むと即座に眠くなったが、昨晩はけっこう読み進めることができた。手元にないから引用できないが、昨日読んだ箇所には傾斜について書かれていて、若林はエジプトでピラミッドをみながら、砂漠の下の、砂をとっぱらった地面が必ずしも平地でないことに、あるとき気づいた。エジプト、ピラミッド、という単語は出てこず、「四角推の建造物」というのが出てきたので、私が勝手にピラミッドと判断した。若林奮の文章には、エジプトだのピラミッドは似合わない。それに今書いて気づいたが、その前に「砂漠」と出てきたのだから、もうそれでじゅうぶんなのである。似合うのは石英とか、シレックスとか、そんなのだ。彫刻家だから。それで、それ以来日本に帰ってきても、風景が傾いて見える、たいていは北がへっこんでいる、という風なことを書いていた。抽象なのか本格的に頭がおかしいのかはわからない。

私は数行前に「彫刻家だから」と書いて、なにかぴんとくるものがあった。私は文章について書きたいなー、と思って書き始めていて、だから、文章にかんすることを書けそうな予感がした。

よく文章が下手だ、もっと上手に文章を書きたいていう人がいて、そういう人が語彙を解決の糸口に置いたりするが、それは的外れである。例えば私なんかは語彙が少ないほうだと思っていて、やっぱりもっと語彙を充実させればいいのかと思っていた時期があって知らない単語をコレクションし、試しに自分の小説に「吝嗇」なんて言葉を使ってみたら、どうもそこだけ他人の手触りになってしまっていけない。そうじゃなくて、私は少し前からこんな風に考えるのだけど、だいたい時間ってすべての人に平等じゃないですか? こんな話をすると、「はいはい、その手の話ね」とカテゴライズする人がいるけれど、この時間が平等、を素直に取るならば、私たちの中には他の人と同じだけ積み重ねたものがあるということである。だから、良い文章を書こうとするならば、まずは過去に目を向けるべきである。積み重ねた、というと世間ではなぜか苦労とか経験とか、特別なものしかそうできないという風潮があるが、私は遊んでいようがサボっていようが、生きている限り同じだけ積み重なると思う。私たちは誰かや自分の要求に対してサボったりするが、そうしていたって脳や身体自体がその間動きを止めているわけではない。だから、意識無意識は置いといて、何かしらの試行錯誤は行っている。寝たきりの人であっても、その人にしか行きつけない境地がある。

前向きなことを書いてしまって気持ち悪いが、文章を書くという行為の出発点は、従って自己肯定なのである。何かを求めてばかりの人はダメなのである。高みを目指すとか、そういう時間があってもいいけれど、どこかで自分を認めないとまず書き出すことすらできない。だからテクニックとして自分を卑下するのはいいけれど(私は嫌だけど)卑下しながら書くのはやめよう。

文章は空間を埋める作業である、とふと思いついた。埋めなければスカスカの文章になるか、ただのあらすじになってしまう。あらすじには顔がないし息づかいがないし、大抵はセンスがない。だから埋めたほうがいいのだけど、それを不特定多数の共通項で埋めることが、良い文章の近道であると、なぜか世の多数の人は思っていて、私がそう思う根拠に昔小室哲哉中谷彰宏面接の達人の人・イマイチ自信がない)の対談を読んだときに、小室哲哉が歌詞の中でキティちゃんを登場させたときに、キティちゃんとは書かずに、「子猫のぬいぐるみ」みたく書いてわざとボヤかし、こうすることによってキティちゃんが嫌いな人も取り込めるから、これが多くの人の共感を得られるからヒットの法則なのですよ、と語り、中谷は拍手喝采だったが、私は果たしてそうなのか、と疑問だった。全く同じことを言った有名な歌手もいて、歌手、というと古臭いが割と最近の人で、男で、ビジュアル系の人である。ビジュアル系、は言葉としては古いが、V系と書くとなお古い。やはり歌詞はあいまいに書くのがコツ、と言っている。

だけれど若林奮は、そこにシレックスや石英を入れていて、そういうのに共感できるのは地質学者とかだけだが、それでも私は面白いと思う。私はこの文章の前半で、「彫刻家だから。」と書くまで若林奮が彫刻家だということをすっかり忘れていて、でも本当はそんなことはどうでもいいのだが、シレックスや石英という曖昧さの対極にある言葉に魅力を感じるのは、彫刻家がひたすらそれらを掘りまくっていたからだろう。

なんかうまくまとまってしまいそうで気にくわないので、この記事はここで終わり。

※追記
私の中で「まとまる」とは、前段落や前々段落に書いた内容が意味を持ち、今の段落とつながってしまうことを指し、私としては、書きおわった段落は速やかに忘れ、つながるどうこうは、読者に丸投げしたい。