意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

テニスコート

通勤途中に橋があり、橋は大きく左にカーブしながら海抜を上げ、見る角度によっては車が宙を走っているように見える。川以外の、寺や工務店や保育園などの建物もその下におさまる。人が寝泊まりするだけの建物もある。工務店は石造りの大昔の宮殿のような門構えで、対照的に保育園は土を大事にする。子供をおぶった女が、木の柵を挟んで保育士とおしゃべりしている。柵は腰の高さほどしかない。保育士は私服なので、大学生に見える。保育士の背後で土地が隆起し、その向こうにはすのこがひいてあり、子供が裸足で駆け回り、すのこはシーソーみたいに傾く。すのこの下はコンクリートである。昔私はシーソーのような石に乗って楽しんだ。帰り道に石置き場があったのである。「心臓の石」と誰かが名付けた。心臓の鼓動のような音がするからである。私たちはどこかにいる巨人の命を預かっていた。どうして、教師が注意しないのか不思議だった。そこはたくさんの石が高く積まれていて、落ちたら大怪我しそうだったから。

川の手前には河川敷があり、そこは運動公園になっていて、杉の木が等間隔に並んでいる。杉以外もある。あるいは、それは杉ではない。まっすぐな木が大気を突き刺すように並んでいる。北を向いているから北朝鮮か。しかしそれは帰りの風景だった。行きにはそれが見えない。私は行きの話をしている。河川敷に至る前には少し太い道があって、そこでバイクが私の車を追い抜いた。バイクのタイヤは太かった。浮き輪のようである。黒い、業務用の浮き輪である。バイクはその少し前に猫の死体を踏んづけた。不注意ではない。前が詰まっていたから、私も直前までそれを認識していなかった。そう考えると、交差点のそばではねられるのはめずらしい。バイクは私のすぐ後ろを走っていた。バイクの舌打ちが聞こえた。

太いタイヤが砂を巻き上げ、私にはそれが砂ではなく猫の一部に見えたが、それは砂利だった。田舎なので、砂利がたくさんあった。道の向こうは畑だった。バイクはラインの向こう側の、歩道を走っている。歩道は緑色のゾーンだ。バイクには若い人が乗っている。私の前に割り込んだ。その次の信号で、さらに前の車に行った。各駅停車のようである。追い越すから急行か。予想したとおり、バイクは橋の向こうの専門学校の生徒だった。ヘルメットに、派手なステッカーが貼られている。

河川敷にはテニスコートがあり、それはこの前の台風で完全に水について浸かり、ネットがたくさんの水を含み、みんな中心部分がたるんでいた。コートは6面ある。たくさんの泥が入り込み、男たちがそれをどかしている。私は中学時代はテニス部だったので、中学時代を思い出した。私たちは練習が終わるたびにネットを取り外していたから、台風がきても大丈夫だった。ネットはワイヤーで支えられていて、水平を保つためにワイヤーは強い力で引っ張られ、まきつけられている。だから、外すときに注意しないと緩んだワイヤーが飛び散って、怪我をする。たぶん、最初にそう教わった。もう覚えていない。私は2年が嫌いだった。

私はネットを外す係よりも、ライン上の土をどける係をよくやった。玄関用のほうきを縦向きに持ち、ラインの上をはくのである。腰を曲げ、同じ動作を繰り返し、私たちは工業のようである。出入り口のそばでは、部長がなにか話をしている。私は部長と口をきいたことはない。三年の誰とも口をきいたことがない。三年はジャージの脇に、赤いラインが走っていて、それが三年のシンボルである。二年は青で、私たちは緑だった。小学生のとき、緑団は最弱だったから、私は緑が気にくわなかった。いつだったか、上級生の緑団の団長が、昼休みに(昼休みなのに「いつだったか」ってつけるの、変?)青団の教師の前でわんわん泣いていて、おそらく青団は担任で、団長は
「ただでさえ万年ビリの緑なのに、山本先生がいるんだから、絶対に勝てるわけない」
団長は責任感が強かったから、勝てない戦に臨むのが耐えられなかった。山本先生はデブで、メガネをかけ、メガネの下端が頬肉に食い込み、たしか最初のジュラシックパークの映画で、似た感じの博士が出ていて、そいつは勝手に恐竜を持ち出そうとしたら、毒をはじめとする持ったやつにやられた。毒は、最初は小さいやつだったから、彼は油断していた。もちろん最後まで小さい。山本はでかい。死にはしなかったが、教師対PTAのリレーで張り切って走ったら第4コーナーで、アキレス腱を切った。「ぶちっ」という音がして、屋上にとまっていた鳩が飛び立った。鳩はようやく運動会のやかましい音楽に慣れたところだった。放送部の女の子が、
「山本先生がんばってください」
と表情のない声で実況した。渡り廊下で団長がわんわん泣いた年とは違うときの出来事だったが、なんにせよ山本=最下位だった。かつて緑が二年連続で優勝した奇跡の年があったが、そのとき山本は青団だった。そのとき本当に青がペケだったのか、山本以外みんな忘れたが、「山本=最下位」と決めつけておけば、みんなの記憶のメモリ消費は最小限に押さえられた。

「おいお前いつまでやってんだよ」
いつのまにか私の前に人が立っていて、その人は金太郎に似ているから私が胸中で「金太郎」と名付けた先輩だった。私は青団だったが、今は緑である。金太郎は青だ。青だから横柄な態度にでる。歴史上の金太郎とは大違いである。しかし、私の家には「金太郎」はないから違わないのかもしれない。代わりにうちの家には「孫悟空」と「クルミ割り人形」があった。「孫悟空」は中国語、「クルミ割り人形」は、ロシア語で書かれていた。一体両親はどこでそんなものを手に入れたのか。それらとあと、他の日本語で書かれた子供向けの本は、家の南側の窓のすぐそばの本棚に入っていた。そのため、子供向けの本はすぐに日焼けをした。子供は日光を浴びながら、健康的に読書をしてもらいたいという両親の願いであった。しかしそこは母親の掃除機が行き届かない不毛な場所で、不毛だがホコリはたくさんあった。私は小児喘息をわずらっていたから、そこに長居すると体に障った。