意味をあたえる

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ビッグ斉藤

ビッグ斉藤とは、山下澄人の小説「水の音しかきこえない」に出てくる人物で、昨日私は
「ビッグ斉藤という文字の並びが見たい」
と午後くらいから思っていたので、夜子供が寝た後で本を取り出して開いた。本は「ギッちょん」というタイトルでギッちょんという話も収録されている。ギッちょんは、今朝の私の記事の「私の8冊」のなかの「文學界2012年6月号」にも入っていて、私がいちばん最初に読んだ山下澄人の作品で、私の中では今でもいちばんである。しかし、この前小説家を100人あげる記事の中で、私は100人目か、あるいはどうしても他のが出てこなくなった最後に絶対に忘れるわけがない小説家の名前にしようと思い、最後は保坂和志山下澄人なのだが、とうぜん作品も「ギッちょん」を載せたいのだが、どこまでカタカナでどこから平仮名かわからなくなってしまったので、仕方なく「ルンタ」という作品のほうにした。「ルンタ」も面白いから問題ないのだが。

「水の音しかきこえない」は、保坂和志が「ちょっとまだ小説っぽいぶぶんがある」と、やんわりと批判していて、それが批判なのかはわからないが、「水の音しかきこえない」は、東日本大震災をテーマにした小説で、地震津波も出てくる。あと、「2時46分」というキーワードが突拍子もないところから何度もでてきたりして、2時46分とは、地震の発生時刻であるから、嫌でも東日本を意識させられる。

そういうつながってしまうぶぶん、構造的なぶぶんを、保坂和志は「小説っぽい」と評したのではないか、と私は思った。舞台はパラレルワールドのようなところで、ビッグ斉藤は、最初主人公の会社には香山とかなんとかとか、若めの同僚が5人くらいいたが、ある朝斉藤が出社するとみんないなくなっていて、斉藤は、というのは主人公の名前で、つまりビッグ斉藤の「ビッグ」は名前ではなく、斉藤が二人いるから区別するために、「ビッグ」と呼んだわけで、いつもの同僚は忽然と姿を消し、代わりにビッグ斉藤がいる。ビッグ斉藤はその名の通り、元相撲取りでありプロレスラーであり、途中で人なんかひょいと持ち上げる。あと、森林サリーというのも出てきて、「もりばやし、と読みます。でも、しんりん、でもいいですよ」なんて言ったりして、そういうのも小説っぽい。あと、他にもなんにんか出てきて、これは最初からいるのだが、樋口という上司がいる。溝口だったか。それが、読んでいると、私の上司にそっくりか気がして重ねてしまう。私とは私である。上司はその当時は私の直属の上司ではなかったが、少し前から変わり、だから私もたまには話しかけたりする。

それで溝口は置いといて、しばらく主人公はパラレルワールドをうろうろし、何かの拍子に現実に戻り、「現実」というのは私が勝手に名付けただけだが、足元がしっかりしていて、現実っぽい。そのしっかりした感じがやっぱり小説っぽい。そしてその現実ではビッグ斉藤は焼き鳥屋の店員をし、森林サリーはビジネスホテルのフロントをしている。斉藤は、もうその頃には二人とも仲良くなっていたから、
「さっきビッグ斉藤に会ったよ」
と気安く話しかけると変な顔をされる。こういうズレが、現実を現実たらしめる。

ビッグ斉藤は主人公に「食べ物は何が好き?」
と訊かれ、
「熱いものが好きです」
と答えたりして、そういうのは楽しい。

だから、「小説っぽさ」に慣れてきった人が、山下澄人入門用に読むのには最適かもしれない。