意味をあたえる

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愛情

ここのところ、いくつかの記事を読んでいると、たまに「子育てのコスパ」とか、「子供に対しての愛情なんたら」というのが目につく。その前は主語が結婚だった気がする。これらの書き主はおそらく独身で子育てもしていない人で、私は思うにこれは「世の中結局お金がすべて」というのに似ている。

「世の中はお金がすべてか?」と自問したときには、「すべて、とも言い切れないなあ」というのが大体の答えであり「お金だけじゃない!」と強気に言い切ってしまうと馬鹿丸出しだからなかなか言えないだけで、実際はすべてではない。しかし、すべてではないことは、希望ではなく、むしろその逆なので、貧乏人からしたらお金がすべてであったほうがありがたい。

この理屈を子育てに当てはめると、子育てをしたことがない人からすると、子育てはコスパが悪い、子供に愛情をかけられる人だけが子育てをする資格がある、という風に決めつけてしまった方が、精神的には楽だ。条件というものを設定しておいて、それを満たした場合のみ結婚、ないし子育てを行うとすれば、もう余計なことを考えなくて済む。私もつくづく思うけど、考える行為というのは本当に疲れるし面倒くさいし、精神的に不安定にもなる。しかし私は考える行為は好きで、なぜそうなのかと言えば、比較的ストレスが少ない日常を送っているのと、変態だからだ。だから、裏を返せば極論に走る人は比較的まともで、ストレスが多い。ストレスというのは可能性の裏返しで、だから可能性がたくさん残されている人にはストレスが多い。

それで、子育てだが子育てにとって愛情は手段であって目的ではない。だいたい、愛情という不安定なものに寄りかかるのは心許ない。不安定、というのは例えば、子供にとある行為に対して、ほめるのは愛情だけど、あえて叱りつけるのも愛情だったりして、それはケースバイケースなんですよという話だが、ケースバイケースはなんの答えにもなってない。

じゃあ目的とはなんですかと言えば、親権者の義務を果たすことで、もちろん子供に対してまったくの愛情もない人がこの義務を果たすことはかなり難しいが、果たせる範囲であれば、愛情なんていくら休んだって構わない。憎んでも良い。子供だって自分とは別人格であり、自分一人の子ではなく、また外から色んな影響を受けるので、気にくわないところは自然に出てくるし、最終的に相性がまったく合わないとなってもちっとも不思議ではない。

そういう育て方をされた子供は不幸だとか、親の愛情を知らなかったから今の私は苦しんでいる、と思う人もいるかもしれないが、子育てに希望のあるところは、20年くらいで終わるところで、いくらひどい親と暮らしていても、その後はひどくなく生きることができ、そしてその期間の方がずっと長い。

ひどくなく、と言ったって、私は親に心身ともズタズタにされて今でも病院通いで親の有無関係なくひどいです、という人もいるだろうが、それは親が義務を果たさなかったパターンである。

なぜ私がこういう考え方なのかというと、親がそうだったからで、父は私によく「親権は俺にあるから」みたいなことを言った。大学を出たら、もう自分の責任だし、俺(父)は関係ながら好きにすればいい、しかしそれまではこっちの責任なんだから、理不尽でもきかなければならない、という理屈である。愛情、という言葉はたぶん一度もない。母は料理には鍋に向かって「愛情ー」と愛情を入れていたが、私自身の脳天にくれたことはない。