意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

水たまり/昨日の記事について

あまり関係ないことだが、同時に書いてしまおうと思う。まずは昨日の「愛情」という記事について、私は途中から退屈した。その理由は、万人に良い顔をしようとして、キューアンドエーみたいな文章についてなってしまったからだ。相手の所感を想定して、それをつぶしていく的な。だったら、万人に良い顔をしない文章にすればよいだけの話なのだが、そういう風に感じてしまった時点で手遅れというか、指先に重石をぶら下げられてしまったように、滑らかに書けなくなる。私が文章をつづるときにスピード感を大事にしていることは、私の文を定期的に読んでいる人ならば感じていることだろうが、その理由について私も深く考えたことはないが、それは過剰なサービス精神によるせいではないか、と思った。私は一緒にいる人が楽しまないと気が済まないタチなのである。例えばテレビというものがある。テレビは、本来の目的とかそういうのは知らないが、あれは複数で見るために作られている。かつて私の両親が結婚したとき、家にはテレビがなく、それは二人とも特に必要としなかったわけだが、すると母親のほうの父が、
「テレビがないと、夫婦喧嘩したときに間が持たなくてつらかろう」
と言い、二人にテレビを贈ったというエピソードがある。しかしこれは見方によっては卑怯だ。この二人は最初結婚式も挙げないといい、父親の方の家は田舎でそれなりに土地も持っていたから、結婚式をしないという発想はなく、だから困ってしまって
「なんとかやってくれないか」
と頼むと、
「費用を持つなら考える」
と言い、なんとか挙式までこぎ着けた。自分の血縁の人だから言えるが、これは詐欺紛いの手口である。

それで、私はテレビを複数で観ていると、一緒に見ている人が楽しく見ているのか気になって仕方がなくなり、自分が楽しむどころではなくなってしまう。だから私はチャンネル権は早々にに放棄し、それが同居人が楽しむための効率の良い手段なのである。それでは私は楽しめないのかといえばそうでもなく、私は楽しもうと思えばだいたい何でも楽しめるのである。私の楽しい・楽しくないは、外部からよりも内部からの影響の方が大きい。先月は「大人のピタゴラスイッチ」がやっていて、私は子供向けのピタゴラスイッチも結構好きで、あの番組は長いから若干飽きてはきたが、それは子供向けだったからだ。以前のアルゴリズムを扱った大人回もそれなりに楽しかった。だから、私は裏紙に番組の放送日と時間、番組名を書いて子供に渡して予約するように頼んだ。私は予約方法がわからないのである。いや、わかるのだが、いつも予約がいっぱいで、どれを消すのかわからないから、やっぱりできない。

私が「テレビを見たい」と主張するのは年に1回とかしかないから、子供は快諾し、子供としても親に頼まれごとをされるのは嬉しいのである。しかし二回放送されたうちの最初の方は撮り逃した。二回目はうまく撮れたが、私がそれを家族と見ていると、本当は私はひとりきりで見たいのだが、子供もそれなりに興味があるようで、私たちは食卓を囲みながら、新たな仕掛けを楽しんでいたが、妻だけが
「この番組はどういうぶぶんを楽しめばいいのか」
と、ちっとも楽しくないらしく、私はだんだんと気が気でなくなり、そうすると私も大して楽しくないから、でも子供は楽しいから、
「はやく終わってくれー」
と心の中で願った。見終わるとすぐに消した。妻は自分の基準しか持たないから、とても身勝手な印象を持たれるのかもしれないが、私としてはそういう相手の方が実は楽なのである。私は私とは一緒に暮らしたいとは思わない。友達くらいならいいけれど、ちょっと何考えているかわからないから不気味だ。妻もよく
「あなたが何を考えているかわからない」
と言う。実は私にもよくわからないときがあるから無理もないと思う。対照的に妻の性格はわかりやすく、多分妻も自分の性格を自分でよく把握していると思っているから、私は夫婦としてのバランスはいいんじゃないか、と思っている。

長くなったので「水たまり」のほうは別の機会にします。