意味をあたえる

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文系の切り札

小島信夫「小説の楽しみ」(水声社)から引用

 ある大学の先生が、こんな話をしてくれました。彼が理科系の学生を対象にした文学講座の第一回目を担当したとき、講義終了後に学生から、こういう質問があったそうです。──「文学にも関心があって、カフカの『変身』を読んだんですけれども、馬鹿ばかしいほど他愛のないこんな話が、なぜ二十世紀の文学を決定づけるといわれるほど重要なものなのか、さっぱりわかりません。主題とかテーマとか全然見えないのですが」。
 そこで先生は、「あなたは知的聡明さがありすぎるんです。ある批評家によれば、本を読む喜びに浸り得る唯一の資質は、知的な聡明さではなくて、愚鈍さに恵まれていることだそうです。主題とか思想は何かというような読み方をしている限りは、小説は面白く読めませんよ」と応じたそうです。続けて、「テーマや作家の思想などに関係なく、カフカのこの本の中で、一箇所でもどこかすごく気に入ったところはありませんか」と尋ねたら、学生から「リンゴを投げつけられるところが面白かったですね」という答えが返ってきたのだとか。
 ぼくがこの話を聞いて思ったのは、先生の答え自体が聡明すぎるんじゃないか、ということです。学生に言った「知的聡明さ」という言葉。こういう言葉は、文学と関係がない。一冊の本を読んでどんなふうに感情が動くか、自分がその作品にどれくらい惚れ込むか、そういうことが問題なんです。

(中略)

印象に残ったのは、「リンゴを投げつけられたところ」でしかないわけです。そういう言い方を聞いた時点で、この人には文学など分かるわけないな、と感じてしまう。

(p109 中略は引用者)

ネットの文章を読んでいると、たまに「文系vs理系」みたいなのを見かけるが、もし小島信夫が「文系」に肩入れしたら、かなりの切り札になるのではないか。というよりも「知的聡明さ」が切り札になる。とにかく理系がなにか言ってきたら、「ああ、理系は聡明すぎるんだよね」ときり返せばよい。しかし、本当に小島信夫がまざったら、両刃の剣になる恐れもあり、結局は小島信夫ひとり勝ちとなるのだろうが。「文系=文学」というのはナンセンスだが、文系、理系とスパッと分けてしまうのも同様だから、戯れと読んでほしい。

ところで話の中の「リンゴを投げつけるところ」というのは、小島信夫は批判的に書いているが、私は面白いと思った。少しして店を出てから、そういえばリンゴって、と思った。店とはマクドナルドである。今日は朝から妻も子供も出かけてしまい、私は仕事だったのだが、妻子は始発の電車に乗るというので駅まで送ったらそのあと暇になったので、朝マックをすることにした。大型スーパーにくっついた店舗で、スーパー自体は朝10時からである。以前は別の店舗が入っていてそのとき一度行ったことがあるが、駐車場と建物の間に渡り廊下のようなのがあって、私はそれが気に入った。じっさいただの横断歩道なのだが、上に何かの通路があって雰囲気が小学校の渡り廊下っぽい。

マクドナルドは入り口がなかなか見つからなかった。一度国道沿いにでて、歩道を歩くのは私だけだったので恥ずかしかった。他の人は車道を歩いているという意味ではなく、他の人は自動車に乗っていた。男の人が多い。誰も私のことなど見ていない。そこで30分くらい本を読み、つまり入り口を私は見つけ、建物には二つ出入り口があったから、私の入った方はへんてこな、不自然な出入り口だったかもしれない。私は国道からやってきたから。しかし幾人か客もいたから私は安心した。店員は笑っているが機嫌が悪そうだった。禁煙エリアと喫煙エリアの境がわかりづらい店舗だった。以上描写終わり。

それで、リンゴというのは、文系理系関係なく、またテクノロジーでも音楽でもリンゴというのは意味付けがされていて、こんなたくさんの意味を背負い込まされた単語なんてほかにあるだろうか。だからだんだんと、この学生が「リンゴを投げつけるシーンが気に入りました」というのが、作り話っぽく感じてきた。ちょっとできすぎである。小島信夫自身も、リンゴの意味について触れていて、アダムとイヴとか言うくせに、ニュートンの名前は出さないから、やはり文系に肩入れしてるんじゃないか、と思う。

朝からカロリーの高いものを食べたから、1日調子が狂ってしまった。