意味をあたえる

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「朝がきた」のリアリティ

この前録画した「朝がきた」というNHKのドラマを見ていたら、それはちょうど幕末から明治にかけての大阪を舞台にしていて、主人公は両替屋につとめていて、明治維新となっておおさわぎとなる。私はそれを見て昔見た「赤毛のアン」でアンのおじいさんが銀行が倒産したのを新聞で読んでショックで心臓発作を起こす、というのを思い出した。確か野外の、ベンチに腰掛けながら新聞を読んでいたように思う。ふと思うに、アンのおじいさんは私の母方の祖父に似ていた気がする。しかし祖父は禿げていた。しかしそれは戦争で年中ヘルメットをかぶっていたせいで、真正のハゲがどうかは疑わしい、と何故か祖母はいつも祖父をかばうような発言をした。確かに祖母の息子、私の叔父は髪がかなりふさふさだったから、嘘ではないようだ。父方は父を除いて全滅である。祖父は心臓発作で死んだわけではなかった。

私は赤毛のアンを糸口にして、革命とは何か、銀行がつぶれるとはどんなおそろしいことなのか、家族に講釈を垂れようとしたが、誰も聞こうとはしなかった。先に姉の嫁ぎ先が潰れ、夜逃げを余儀なくされ、それどころではなかったのである。

それで、騒ぎもいくらか落ち着いた頃に主人公の両替屋の番頭とそうでない人が、
「どうやら江戸はこんど「東京」になるらしい」
「東の京? バカか?」
みたいな会話を繰り広げていて、私にはどうもこの「アホかいな」という風に笑い飛ばす人の笑い声が、現代の発展した東京を知っているような笑い声に聞こえ、ああ、作り物なんだ、と気持ちが離れてしまった。リアリティがない。

最初それについては俳優さんの力不足こように捉えていたが、むしろ脚本や演出で、
「東京をバカにする彼らが滑稽に見えるように」
と指示したのかもしれないとも思えてきた。つまり、滑稽すぎるのである。それは視聴者が優越感に浸れるような、テレビ局側の配慮かもしれない。例えば、電話ができてない時代の人に電話の話をすると、
「どうやったら離れている人と話ができるんだよ?」
と怒り出す人を見て、実は今は映像なんかも送れるんですよねー、とほくそ笑むのに似ている。

だけれども、上記の東京の演技というのは、海辺で育った俳優に「初めて海を見る演技」を求めるのと一緒で、私は芝居というのは全然わからないから、そういうとき可能な限り海の記憶を消して臨むのか、それとも海を見たことのない何かに置き換えるのかは、見当もつかない。しかし、観客側というのは海を知っている人たちばかりだから、実は本当に海を知らない人を連れてきて演技させても、
「違うんだよなあ」
と思われるのかもしれない。リアルとリアリティは違う、というやつである。

私はここのところリアリティについて熱心に考えていて、それは保坂和志の、
「リアリティがあるから面白い、ではなくて面白いからリアリティがある、だよ」
という発言がきっかけで、それからリアリティと面白さをひっくり返す遊びをしている。

例えば昨日の記事でもって書いた石原さとみのドラマだが、そういえば、頂いたコメントで、
「石原はどうしても石原軍団を想起して硬い印象がある。さとみん、と記述してほしい」
という要望があったが、当ブログは硬派でとおっているので却下します。確かに私も最初石原さとみ、と書いていたらだんだん面倒くさくなってきて、「石原、石原」と書くようになったら石原軍団のことを書いている気にもなった。石原軍団なら、山奥でもヘリかなにかで容易に行けるから、さとみの「汚名挽回欲」も満たされなかったのかもしれない。