意味をあたえる

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回想で自分に敬称をつけるかどうかという問題

以前、自分の配偶者の話をするときに「(配偶者の)名前+ちゃん」と言うことが受け入れられない、と書いた。「妻」とか「カミさん」「奥さん」というタイミングでである。友達関係ならまだしも、例えば会社の同僚、先輩後輩くらいの関係の人に、
「うちのミサちゃんの場合は......」
なんて切り出されると虫酸が走る。そもそもいきなり個人名を出されて、相手が戸惑うとか、そういう発想のない人なのである。それは、すでに何度かそういうパターンをやり過ごしているから、相手もミサちゃんとの関係は了解している、という場合でも同じだ。そもそも、大して親しくもない相手の記憶領域に、相手の人生にさして関わりもないような人物の情報をねじ込もうというのが傲慢である。脳内で「○○の妻」というのと「ミサちゃん」は別のところに保存される気がする。

これと似た種類の話を、私は今朝思い出したので以下に記する。

特に親しい人に昨日あった愉快な出来事などを報告するときに、小説のように再現して話す人がいる。まずは登場人物の紹介から始まり、それがどんなことを言ったか、とか、事件があったか、を時系列でかたる。言ったことであれば、内容は会話を再現する。つまりひとり二役とかする。そのときに、
「弓岡くんは、本当に他人に興味を持たないね」
みたいに自分の名前が出てくることがあるが、私はいつもそこに敬称がつけられていることに引っかかる。話す側からすれば、セリフの内容を正確に再現しているだけだが、自分を「君付け」で呼んで、こそばゆくならないのかな、と思う。私はこそばゆい。だって、返信封筒の「様」を「行」に直したりする世の中だもの。だから、私は人に愉快な話をするときに、再現という手法はまずとらない。私はだいたいあらすじを話す。そもそも私は人に話をするときには自分の中に厳しい基準を設けており、内容の面白さと話の長さは比例しなければいけないと思っているのである。つまり、これはあまり笑いがとれないと思ったら、かいつまんで話す。そういうやり方に、再現手法は合わないのである。

私がなぜ自分の敬称を嫌がるのかと言えば、過去にそういう人がいて私がその人が嫌いだったからである。彼はよく自分の話をしたが、
「原君」
と自分をやたらと君付けで呼び、その後は大抵自慢話だった。話が面白くても、最後は自分は周りに認められている、というアピールだったから、だんだんと話していて気持ちが良くなくなった。自分の話、とは間抜け話だって結局はアピールに過ぎないのだが、そういうのが鼻につく人とつかない人がいる。

彼に会って以来、私は自慢話をしないよう気を付けるようになった。あと、彼は議論が得意で、
「口で俺にかなうやつはいないよ」
と豪語していて、私もそれなりに弁が立つほうだと思っていて、彼とやり合ったら、結局「口が強い」とはいかに自分が負けないようにするかのテクニックの競い合いに見えたので、以来議論には首を突っ込まなくなった。

あるいは彼は太っていたから、劣等感の塊だった。