私は農村地帯の出自なので、「米」という単語を使うとき、そこには単なるご飯という主食である穀物以上のニュアンスが含まれる。私の実家は田んぼを所持しており、しかしそれが実際登記上誰の土地であるかはわからない。元は祖父がそこで稲作を行っていたが、祖父は私が小6のときに事故で死んだ。ところで、私はここのところ小学校時代のエピソードをよく書いているようだ。いっつも、「小学○年生のころ」という表現をどうするかでつまづく。最初は小学高学年のエピソードを書こうとしたときに、「小学高学年」と全部打つのが鬱陶しくて、「高学年」とだけ書いたがそのとき初めて高学年というのは小学校だけに通用するワードだと気づいた。中学高学年だとか高校高学年だとかはまず言わない。それは中学高校が三年という奇数だから、それじゃあ2年生は高学年? 低学年? となっちゃうから誤解を招くから自然と使われなくなった結果かもしれない。大学はどうだろう。そういえば私は小学4年の時に大学4年にシンパシーを感じた。それまでは中学、高校と揃ってあったから、急に心細くなったのである。5年以降は完全に孤立だったが、小学56年は、かなり楽しい時期だったから心細くはなかった。
私は厳密に言うと、高学年と書くだけで読者はかなりの確率で小学時代と判断してくれる、という手応えを、単語を書き終えてから気づいた。つまり書き出す前、最中は誤解があるかもしれないが、まあいいやという気持ちで書いていた。例えば大学時代のエピソードと勘違いしたら、随分子供っぽい大学生だな、とか思ってくれたら愉快だ。よく文章は正確に伝わってナンボの世界だ、という主張を見かけるが、私は端から伝える気なんてないんだから、他愛のない誤読は大歓迎である。私は読者を信用しているから、執拗にわかりやすく書こうなんて思わないのである。
そういえば昨晩は朝方に目が覚めてしまい、それは午前3時50分とかで、今思い返すと私は少しうなされていた気がする。何か夢を見ていたが忘れた。例によって心細い気持ちになったが、そういう時間帯なんだろうと気にしないことにした。特に眠気もないのでイヤホンを持ってきて、保坂和志の動画でも見ようと思った。隣の畳の間のタンスの上の籠の中にイヤホンはあった。耳にひっかけるそう簡単には落ちないタイプのイヤホンだ。私は耳の穴が小さく、あるいは大きいため普通の押し込むタイプのイヤホンではぽろぽろ落ちてしまい、苛々する。布団に戻ったら私の足先はそれだけで冷えていたから
「私は寒がりだな」
と思った。動画は最初は横向きに寝ながら見ていたが、保坂はただじっとしているだけなので、スマホを裏返しにして、ラジオを聴くつもりで聴くようになった。裏返しにしたのはバックグラウンドで再生する方法がわからなかったからである。5時半まで見たら中断して、そこから端末を充電しようと決めた。100%で家を出ないと、1日持たないからである。朝6時には起きるので充電時間は30分だが、私はそれだけあれば満タンになると判断した。そう書くとうまく充電できなかった、という結末になりそうだが、ちゃんと満タンになった。ガソリンは半分くらいだったので、明日、あるいは週末に給油したい。我が家では月末に給油するのが禁じられており、私はそういうのはナンセンスだと思っている。
保坂の話で印象深かったのは、「遠い触覚」ではラストのほうは「。」をあまり使わずに「、」ばかり使っているが、それは接続詞を使いたくないからで、使うとその後の文の方向が決まってしまう、みたいなことを言っていた。小説で接続詞を避けるのはセオリーだと私は思っているから「何を今更」という気もしたが、保坂は接続詞を使うとその後に影響する、というニュアンスで、セオリーのほうは読者に展開がバレてしまうというテクニックなので、微妙に違う。確かに私もブログを書いているときは、接続詞がないと不安なときがあって、ついつい頭痛薬のような使い方をしてしまう。頭痛薬?
それとまた小島信夫の話があって、小島がやっぱり小規模の座談会、講演会みたいなのをやったときに、来場者が女性ばかりなので、
「近頃の30代、40代の男性は好奇心がない」
と苦言を呈したが、そもそも小島がやっていたのは平日の昼間だったので、その年頃の男はみんな仕事に出ていた! と突っ込みを入れていた。その話のきっかけが、保坂が
「今日は男ばかりだなあ」
と会場を見渡して言って、そこから始まったので、一瞬即興の話のような雰囲気だったが、あらかじめお客にはプログラムのようなものが配られており、順番はわからないが、それに沿って喋ると保坂も宣言していて、だから男性が多いと言うことも、最初から折り込み済みだったのかもしれない。あるいは、本当は男女は半々だった。やたらとプリントをぺらぺらめくる音が聞こえてきて、まるで学校のようだった。
それで小島の「近頃の30代40代は......」から話はどんどん脱線していって、その話はどうなったー、と思いながら聞いていたら、というか諦めていたらなんと再び戻って結論めいたことも言っていた。結論は置いといて、話を聞きながら私はこういう小説が書きたいんだ、と改めて強く思った。