意味をあたえる

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書くことなくなったらどうするか/脱力

最近「書くことなくなったらどうするか」という記事をよく目にする。書きながら書けなくなったことについて考えるのはいかにも現代人らしいというか、しかし私は現代人しか知らないから、私は適当なことを言っている。清少納言枕草子を書きながら
「冬以降はどうするか」
と考えていたのかもしれないし。

だけれどもいろんな作家の書いたものを読むと、どうやら書き続けている人はそういうことをあまり考えないようだ。今書いていることに集中し、次に書くことなど考えない。次回に書こうと思ったことはなんとか今回に盛り込む。つまりケチくさいバイキング、食べ放題のように、全部食べきらないとおかわりができないのだ。書ききらないと次はないらしい。

もちろんそれは外向きの顔でそう言っているだけであって、裏では次のことも必死で考えている、そうしなきゃ継続できない、という可能性もあるが、だとしても少なくとも表向き、周囲に対しては「毎日全部出しです」という姿勢でやっているということだから、そうやればいい。

たまに他の人のを読んでいて気になるのが自分の体験は一度しか書けないルールを、自分に課している人がいて、今はうまく書く自信がないから後回しにしようという論理だ。どうして一度しか書けないのか、私には理解できないが、理解できる部分はあってそれは過去の話だが、あるときそれは自分が勝手に決めたルールであり誰もそんなこと強制していない、と気付いた。面白ければ別に何度書いてもいいと思う。

私は書き終わると割と書いたことをすぐに忘れてしまうから、実は全く同じことについて書いた記事も一定数存在するのではないかと思っている。なにせ私は私のことを書いているから要するにネタ元は同じなのだから、それはそういうことがあってもおかしくない。なんとなく覚えがあれば
「前にも書いたが」
と注釈を入れるが、特に検証していないから、実は初めてだったりすることもある。そうだったら愉快だな、と思いながら、私は初めてでないふりをするのである。話がひっくり返りました。

私は、私のブログを熱心に連続して何人くらいが読んでいるのかわからないが、一応今まで
「それは前にも書いたことですね?」
と指摘を受けたことはない。読者も忘れるのだ。それに私がもし前のをコピペしたとして、それに気付いた読者がいたとしても、その人は
「これは弓岡は何か狙いがあってやってるな、本当に底知れない人だ、、、」
と判断し、迂闊に
「ネタが枯渇したんですね?」
なんて言えないのである。それは、私が普段から底知れない人物のようにセルフブランディングしているからである。もし「同じですよね?」と言われてムカついたら
「あなたが私の書いたものをすべて同じだと感じたら、それは偽であふれたネット界隈において間違いなく同じ人物が書いたという紛れもない証左になるのだから喜ぶべきことだ、あるいは私たちは毎日自分自身をコピペしているわけですから」
とでも返しておこうか。詭弁に聞こえるかもしれないが、詭弁は本人がそう思わないかぎり詭弁ではない。そして私はどうあがいたって、私以外のようには書けないのである。

脱力

さっきにじ子さんの記事を読んだら小島信夫「残光」を読んでいるとのことで、小島仲間が増えた気がしてうれしいので書きたい。「残光」の中には保坂和志が登場し、
「小島さんの作品の中では「寓話」と「菅野満子の手紙」がいちばんおもしろい」
と話し、それを聞いた小島信夫がその2作品を読み返す場面がある、それは小島がもう2つの内容を忘れてしまったからだ。そしてかなりの紙面を割いて2作品をだーっと引用する。「忘れた」というのはどうも怪しい。

実は上記の2作品については、それぞれ過去に書いた自分の小説が底本になっていて、それを作者が読み返すというところから物語は始まる。一から作られた話ではない。私が今読んでいる「寓話」は「燕京大学警備隊」に登場した人物がその処遇について文句を言ってくる話である。この手の設定は他の小説ではよくあることなのかもしれないが、小島の小説は私小説だから、これは実在の人物が現実に言ってくるのである。いや、それ自体も虚構かもしれない。そういう足場がぐらぐらするような、ぬるぬるするような感覚が楽しい。ちなみにこの人物というのが浜中という男だが、浜中は「墓碑銘」という小説に登場し、「燕京大学」とは違った運命をたどる。私はこれらを読む前に「寓話」を読んだから気づかなかったが、二度目の今読み返すと、この浜中は「墓碑銘」、こっちは「燕京大学」と区別されていて、しかも「燕京大学」の浜中が「墓碑銘」のふりをするからかなりややこしい。結局浜中はひとりなのだが、小島信夫はそういうことを書きながら考えている。ちなみに「残光」を読んでいると
「虚構でした!」
とバラしたり、
「浜中とは私である」
なんて告白する場面もある。

2作品が書かれたのはたしか小島が60代のときで、私はつまり小島の小説は60歳で折り返した、と思った。一から新しい面白さを開拓するよりも、今までの作品の上に積み上げたほうが、より高みに達すると判断したのではないか。考えてみればこれは極めて合理的な発想である。それは続編という形と似ているが、続編とは横移動、あるいはただのマイナーチェンジであるが、小島作品は平屋が二階建てになる凄みがある。景色が変わる。最初の平屋は平屋にするためだけに建てられたものであってそこに才能をつぎ込んでいるから、最初見たときにはこんなのを無理に二階建てにしたら、絶対に潰れるとか思うのだが、かろうじてつぶれない。そこがすごい。

「残光」というのはその折り返された2作品をさらに折り返し、しかもかなり雑にそれらの作品が引用される。本人はもう死期が近いから目もまともに見えないと言って、山崎という男に写させるのである。いや、違う人だったかも。そして、山崎勉という人は実在の人で文庫では解説も書いているのだが、どこかの章から急に表記が
「Y.T」
とイニシャルに変わり、そういう唐突なところが面白いし、この時点から山崎さんは別の人に入れ替わったのである。

いつまで経っても「脱力」という言葉が出ないからワープするが、小島信夫は脱力の達人なのだ。私は昔ドラムのレッスンを受けたとき、先生に
「脱力しろ、脱力しろ」
と耳にタコができるくらい注意されたので、脱力とは私の生涯のテーマかもしれない。