意味をあたえる

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思考力を高めるには

中学に上がってすぐに、私の中学時代にはよく教材販売とか塾や家庭教師の営業電話がしょっちゅうかかってきて、電話がうるさかった。それどころか家に直接押しかけてくるのもいて、そこであるとき

「無料で学力診断できますよ」

と言われたから、私は自宅でテストを受けることになった。もちろん営業はテストだけ置いて帰って行き、私は茶の間でテスト用紙を広げ、母は台所でカレーの具材を炒め始めた。ニンニクのきついにおいが私のいる方まで漂ってきて、そのにおいはテスト用紙にまで染み付いた。私は中学に上がって間もないころで、ルートの計算などまだ出来なかったが、そういう問題もあったから母に

「どうすればいい?」

と訊いたら

「飛ばしていいよ」

と母はアドバイスした。これではちゃんとした診断ができないのではないかと、私は心配になった。

 

後日営業が私の解答用紙を取りに来て、それから診断書を持って再びやってきたとき、営業の40代の男は、まるでそれが通行証であるかのように当たり前のように私の家に上がり込んだ。私と母は仕方なく応接間に彼を通した。応接間は父の部屋を兼ねていて、入るとすぐ横に父のカメラのコレクションが陳列してあった。営業はそれを見て、

「ご立派な趣味をお持ちですね。これらは合わせると軽く100万円は超えますよ」

と言った。母は

「まあ」

と答え、私は長い間父の趣味に対する行き過ぎた額に対する「まあ」だと思っていたが、今思えばそれは、家に上がるなりいきなり金の話を始める男の節操のなさに対する「まあ」であった。男からすれば、ここの家はそれなりの所得があり、契約をとるのは容易だと判断したのかもしれないが、結果として最後は母とケンカのようになって帰っていった。そうなる前の比較的和やかだった頃、私は営業に診断結果を見せられながら

「思考力が高い数値を示してますね、これはお母さんに似たのでしょうか」

と褒められた。母も「恐れいります」と答えた。一体どこの数値を見て言ったのか、当時から男の話は怪しさしか感じなかったが、それでも私はいまだにその言葉を真に受けている。つまり私の思考力は相当のものであり、また母の思考力も高い。ルートの問題は解けなかったものの、おそらく私は正答率0.1%の文章問題とかに正解したのだ。

 

思考力を高めるためには、積極的に「あたり前」だと思われているものと取っ組み合いをするのが効果的である。例えば私は最近2つのことを考えている。

 

1つは、「ご存知の通り」「知っていると思うが」等の言い回しを避ける、というものだ。ブログでも文章でも小説でも、ターゲットを想定する、あるいは絞ることが良しとさせる風潮があるが、私としてはなるべくたくさんの人に読んでもらいたいので、あらゆる層に向けて書いている。そうした時に「ご存知の通り」は自然とご存知ない人を排除することになってしまい、私のポリシーに反する。また「ご存知の通り」は知っていて当たり前という空気を作り出す効果があり、実際耳にしたご存知ない人は、周りがみんな知っているような気がして慌てて調べて、一刻も早くご存知グループに入ろうとする。そういう人間の本性というか、心理を利用して使われる言い回しなのであるが、私としてはそういうのを利用して書きたくはない。ある物事に対して、よく知らない人もいるように感じたら、その都度きちんと説明をしたい。おおよその人が知っていることを書くのは、知っている人からしたら退屈に感じ、読むのをやめる人も出てくるかもしれないが、説明の仕方を工夫し、比喩などに新しい視点を加えれば、すでに知っている人も飽きずに読めるだろう。書きながら思い出したが、よく難しい内容の本を読んでいる時に、

「この章はとくに難しいから、場合によっては飛ばしてもらって、あとから改めて読んでもらいたい。飛ばしても先を読むのに不便はない」

という断りがあるが、それを字面通りに受けとって、飛ばす人はどれくらいいるのだろうか。私はいつも

「馬鹿にするな!」

という気持ちになって飛ばさずに読み、実際に難しくて挫折するのである。

 

次に最近よく考えるのは、本を読むのはインプット、文字を綴るのはアウトプットとよく言われるが、読むのもアウトプットではないか、ということだ。しかし私のこの考えを読んだ人が

「どうして読む行為がアウトプットなんですか? ○○は△△だから、やはりインプットとしかならないと思います」

等の反論をしてきたとしたら、私は何も言い返せない。その通りだ、と思うだろう。最初に書いたが、私はあたり前に挑んでいるだけであるから、確実にそうだ、という地点には来ていない。あるいは言葉以前の状態だ。しかし十中八九間違っている、という物事を正しいとするにはどうすればいいのか、と四苦八苦すると、こじつけでもなんでもやむを得ず抽象度を上げたりしていると、意外と視野が広くなるのである。そうやって考えをつきつめていくと、食事と排泄も同じなんではないか、と思えてくる。保坂和志は「遠い触覚」の中で、生殖器と排泄器官がすぐ近くにあるのはとても奇妙だ、と言っていた。


私は何日か前に久しぶりに自転車に乗った模様を記事にしたが、本を読むよりもそういう行為のほうがインプットと言えるのではないか。