書いていて気持ち悪くなった。 #はてなブログ
— fktack (@fktack) 2016年1月21日
文章の型について、逆再生バージョン - 意味をあたえるhttps://t.co/6slRYsOXQC
昨日の記事とは、普段とは逆向きに書いていく行為を指していて、いつもとは違う脳の働きが行われていることを、リアルタイムで感じた。頭蓋骨の後頭部のあたりを文字が通過していくような感覚があり、気持ち悪くなった。目の裏側である。もう最後のほうは本当にイヤんなった。最後とは最初である。最初の段落で「憤慨した」と記してあるが、実際の私は別に憤慨などしておらず、私は普段はそういう誇張とか勢いからくる大げさな演出が嫌いで、低空飛行とか地をはうような文字の並びが好きで、過剰なくらい淡々と書くのだが、淡々と文字を並べることすら苦痛になった。あと、「ぢゃないか」とわざとレトロな風に書いたのも、そういうわかりやすい遊び心がないとやりきれなかったのである。
「ぢゃないか」というのは、数日前に「HUNTER×HUNTER」という漫画を読んでいたら蟻の王と戦うエピソードで、蟻が倒された後、物語の序盤で殺された元々その土地の独裁者だった男が実は生きていてバルコニーでロッキンチェアーに揺られている、そこで独裁者はある詩を暗唱し、その中で「ぢゃないか」という表記が使われるのである。詩というのは私たちの住む現実にある詩であり、その証拠に欄外に何という詩人の何という詩集から引用しましたみたいな記述がある。私は興味がなかったので詩人の名前はすぐに忘れ、「ぢゃないか」だけ残った。私はどうしても虚構の世界に現実の詩や小説が出てくると、戸惑ってしまう。なぜなら詩や小説というのは、その人が住んで生活している土地の風景と切っても切れないものであり、違う世界で同じ詩がぽっと出てくるわけないのである。ましてや「HUNTER×HUNTER」という漫画は人がぼこすか死ぬ世界であり、かなりの都市部で人が大勢殺されても、周りの人はけろっとしている。世界一の暗殺一家というのがいて、そこの子供に超能力があってその子の要求を聞いてあげないといきなり体がぺっちゃんこになって死ぬという現象があるが、どういうわけか全く別の場所にいる被害者の親しい人も同時にぺっちゃんこになる。親しくても死ぬときと死なない時があり、親たちはその法則を調べようと、執事に
「あの子の要求を一切無視するように」
と命じるのである。そういう人命の意識が倒錯した世界で、独裁者が暗唱した詩が生まれるかどうかは疑問なのである。
話を戻すと、逆向きに書く行為は左手で文字を書くようなじれったさがあるものの、かつてないほど静的な文章が書けたように思う。逆向きの文章では流れが生まれない。それは逆なのは段落単位で見たばあいの話で、文そのものは上から下に向かって書かれるものであるから、反復横飛びのように行ったりきたりするのである。だから、ただ書いているだけでは淀んでいくだけであり、そのために自ら流れを作らなければならない。だから私はふだん使わないような「このように」なんて接続詞を使ったりした。流れの中に接続詞があるわけでなく、接続詞が流れをつくることを、改めて確認することができた。
あと数回やれば、この書き方にも慣れてしまうだろうが、また気が向いたらやりたい。