意味をあたえる

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タイムラインと写真

最近になってGoogleマップにタイムラインという機能があることを知った。どういう機能なのか説明すると、タイムライン、とクリックすると日付が表示され任意の日付を選ぶとその日に自分が日本のどこを通ってどの辺りにいたのかが表示される。私は特にこのサービスに申しこんだわけではないが、一昨年の11月くらいから毎日漏れることなくその日の行動が記録されている。一昨年の11月とは私がちょうどアイフォンからアンドロイドに買い換えた時期で、私がGoogleの機種でGoogleアカウントにログインした時点から、記録は始まったのだ。正直裏でこそこそやられて気持ち悪い。私と同じように機能に気づいていない人もいると思うので、アンドロイドを使っている人はマップを開いて確認してみてほしい。アイフォンはないらしい。あと、後からでも消せるので消したい人は消しましょう。

ところが、私がなぜGoogleマップのタイムライン機能に気づいたのかと言えば、元は日々の行動を自動で記録してくれるアプリを探していて、以前アイフォンのときもそういうアプリを使用していたこともあるが、そのアプリは
「ここまでやると電池の減りが早いですよ?」
とか一言多い感じがして、途中で面倒くさくなってやめてしまった。私がなぜ自分の過去の行動に興味があるのかというと、それは私のカレンダーが寂しいからであった。私のブログを頻繁に読む人ならご存知だろうが、私は三十数年の人生で紙の手帳を持ったのは三年程度で一割である。そのうちの一年は小学四年頃に進研ゼミから送られてきたミント色のカバーのシステム手帳だった。私は手帳に予定を書き込むのを極端に面倒くさがる性分で、予定だけでなくメモというものもほとんどとらない。予定はだいたい記憶してしまう。そうすると
「すごい記憶力ですね」
と思われそうだが、実際すごいのは私の記憶力ではなく、私の予定のなさなのである。世の中には分単位のスケジュールで生きている人もいるが、私からしたら別世界の住民だ。私は今はスマホのカレンダーアプリに予定を書き込むが、記入するのは私の会社は休みが不定休だから、休みの日にちくらいなのである。それにしたって私の会社の休みはある法則を従って順番に回ってくる仕組なので、最初から察しはつく。しかも私は現在は仕事の段取りを組む業務を担当しているので、自分の休みを間違えようがなかった。あと他に書き込む予定と言ったら2ヶ月に一度の美容院と、半年に一度の歯医者の定期検診くらいだ。美容院はうっかりすりと予定を記入する前に当日がやってくる。予定表がすかすかなのは寂しいから、たまには子供の予定を書き込んだりするが、忘れがちである。例えば毎週水曜日の習い事とか、忘れようのない毎週の出来事を律儀に書き込む、というのがどうしても真面目にできない。

私の妻などは手帳を仕事用とプライベート用の二種類を持っていて、仕事用は本当に小さい厚紙みたいな手帳なので、しょっちゅう紛失しその度にピリピリする。
「暇なら探すの手伝ってよ」
と、私も捜索にかり出されるのだが、私が見つけるのはいつもプライベート用のほうばかりで、
「そっちじゃないって」
と注意される。私からしたら手帳は手帳なのだから、そっちもこっちもないのである。妻の手帳も一冊にまとめるか、もしくは0冊にすべきである。

話はがらりと変わるが、私はロラン・バルトの「明るい部屋」という本を読んでいて、これは写真についての論述なのだが、バルトによると写真は死を内包している。確かに言われてみると写真は異常なくらい静止していて、死に似ていると言えなくもない。そしてついつい被写体や撮影者の現在について考えを馳せてしまう。被写体がすでにこの世の者でなく、そのことを認めたとたん、写真のどこかにも死の影が浮かび上がる。そういう体験をすると、例え生きている写真でも、どこかに死を認めてしまうのである。そういう意味では写真は過去だが、未来も写している。

ここまで写真についてのバルトの論についての私なりの解釈を述べたが、前段落の「写真」のぶぶんを「Googleマップ、タイムライン」に置き換えられることに気づいた。過去のある時点で、確実にとある場所にいたことを示されるというのは、写真ととてもよく似ている。例えば夏のある日、私は家族と自分の両親と肉を出す飲食店で食事をした。私の両親は喫煙者なので喫煙席にした。記憶の中ではたとえはっきりした日にちを覚えていても曖昧なものだが、タイムライン上に第三者的に記録された事実として示されると、遠くない将来、両親がいなくなった後にその記録を認める私を、想像しないわけにはいかなかった。