意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

春になったら

少し前にブログで、一日20記事投稿した人がいてどうこうという話を目にした。私はその20記事の人を直接見てはいないし、それについて何か意見を表明している人の言明も、あまり気を入れて読まなかったからどんな論旨だったか忘れた。ただ、あじさいさんが、
「20だろうが40だろうが、書く人の勝手だろ」
というようなことを書いていて、その通りだと思った。もちろん、ただ書いていたわけではないから、色々な人が何か言いたくなっちゃったのだろうが、それにしたってそれを含めて勝手だろう。しかし、私は当の記事を目にしたことがないから、実際目にしたらやっぱり、
「やりすぎだ、このやろう」
とか思うかもしれない。特にホットなときはそうだ。ホットなとき、というのは大勢の人が注目しているときで、そういうときに自分の意見、考えを持つのは難しい。いくら自分のオリジナルの意見を掲げているつもりでも、旗を立てた足場が流されているということもある。そして少し時間が経てば、
「どうしてあんなこと思ったのだろう」
となるのである。

私はだから、というわけではないが、最近はあまりインターネットのニュースに首を突っ込まなくなってしまった。だからというわけではない、というのは、出来事そのものにあまり関心を抱かなくなった。マックスむらいって誰だろう。そんな名前のディスカウントストアがあったと思ったら、マックスバリューだった。マックスと言えば私の中ではシャイニングフォースで、最後火山だか地震に飲まれたマックスはエンディングの最後の最後に、生きていたことが判明する。生きてさえいれば、どういう経緯で生き残ったか、などはこだわられない。

一週間くらい前に友達と飲んだが、その人は日経新聞を毎日隅々まで読むという人で、最近その人は結婚し、奥さんとなった人も日経新聞を熱心に読むらしい。新聞なんて字ばっかりでつまんねーじゃん! と言おうと思ったが、新聞を否定するとネットを礼讃しているみたいになっちゃって子供っぽいから、日経新聞を攻撃するのはほどほどにした。私は、かつて新聞を読んだときに、新聞というのは熱心に読めば読むほど折り目が曖昧になって、紙がそろわなくなってそれが気にくわなかった。それから20年とか過ぎ、いまだにその仕組みが変わらないのは心底おかしいと思う。私が新聞を読まないのはそのためだ。

友人は日経新聞を読み続けると、普通の新聞が漫画のように見える、と言っていたからだいぶやられているのだろう。新妻も新聞はほどほどにするべきである。