意味をあたえる

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道は(記憶は)生きている

記憶を司るのは、海馬だっけ? 

交差点で波打つ水たまりを見て、なん日か前に子供の頃、近所に巨大な水たまりがあったことをブログに書いた。それは、他の人の「水たまり飛び越し業」について書かれた記事をきっかけにして呼び出された記憶だった。私は書いた。書いた、というのも記憶だった。本日は風の強い日であり、その風が交差点の水たまりを波立たせ、私に記憶を呼び起こした。呼び起こしたのは、正確には、「昔のことを思い出して、書、い、た、」のほうの記憶である。記憶は構造をもっている。

私は朝に、その辺を走ってやろうと思い、車を出した。しばらく走るとその走っている道が比較的新しい道であり、確か私が高校生くらいにつくられたバイパス道だったので、私は古い道を走ろうと思い立った。

以前の記事で何度も書いたが私は子供の頃は小児喘息であり、
「喘息には水泳がいい」
と主治医がアドバイスしたので、母は自分の長男を市内のスイミングスクールに通わせた。長男とは、昭和54年生まれの私のことである。

踏切を渡ると、一気に寂れた。ディスカウントの酒屋だったところに、巨大な傾斜があり、それはソーラーパネルだった。その脇に骨組みだけになったビニールハウスがあった。中では枯れ草が栽培されている。魚屋も、バッティングセンターも、店を畳んでいた。やがて道は行き止まりになった。子供の頃の私はその行き止まりが、世界の果てのように感じた。行き止まりとはT字路で、右に曲がって坂をのぼればスイミングスクールだった。私はスイミングスクールが嫌いだったので、T字路を曲がると泣きそうになった。

また、その道は私が中学に行くときに、自転車で通った道でもあった。中学の私は、スイミングスクールのことなど一度も思い出さなかった。そこは正確には通学路ではなく、その道は車が多かったから、学生は本当はもう一本なかの道を通らなければならなかったのである。しかしなかの道は田んぼ道で周囲になにもなく、真冬にはものすごい北風が吹いて登校が難儀だった。それだけの向かい風ならば、帰りはさぞ楽に帰れるだろうと学生たちは期待したが、帰る頃には風は止んでいた。しかし風は吹いていた。

私はとにかく、田んぼ道は遠慮して、車通りの多い方の道を選んで登校していた。もつ煮屋の前に斜めの細い道があり、そこを通って刃物屋の前を通過すると、道は他のみんなと合流し、私は何食わぬ顔で校門をくぐった。校門とは北門であった。私の中学は学区がとても広く9割の学生が自転車で登校していた。

あるとき、刃物屋の前に教師が立っていた。
「おい、お前、お前だったのか、止まれ」
教師は私の自転車のハンドルをがっちりつかんだ。教師とは担任だった。私はつかんだ担任のこぶしに、親しみをおぼえた。
「ここは通学路じゃないぞ、知ってるだろ」
「今知りました」
「嘘つけ、歩道もないし、危ないだろ」
「一応白線の内側を走ってます」
「カーブもしてるし、ドライバーからは見づらいんだよ」
「ちょっと急いでいたんですよ、寝坊して、なんせ学校まで10キロもあるから」
「10キロ? お前んちから? 10キロも走ったらK町に出ちまう」
「母が10キロあるって言ってました」
「お前んちの母ちゃんは、東京出身だろ? 土地勘もないし、だいたい東京のやつはすぐ電車乗るから、距離なんかわかんないんだよ」
「じゃあ何キロですか」
「長く見積もっても、5キロだ」
“見積もって“のぶぶんで教師は目を細めた。教師の担当は理科だった。
「半分ですね」
「そうだよ、なんでも半分だよ。なんでも実際より半分と見積もってりゃ、間違いない」