意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

夢という言葉の無難さ

ナミミの卒業式があったので行ってきたら、体育館の中がとても冷えた。天井が高いせいだろうか。風は強かったにせよ、昨日のような冷たい雨はやみ、日もさしこんだから、もっとあたたかいのかと思った。いっしゅんコートを置いておこうとしたが、車だからあんまり暑かったら車に置いていけばいいや、と思ったから持ってきたから正解だった。子供の頃から車で出かける習慣がついていると、「大きな荷物は車に置けばいい」という発想になって荷物をコンパクトにするのが苦手で、だからたまに新幹線で旅行、となると肝心なものを忘れたりする。私は中学のころに一度だけ家族旅行が新幹線のことがあって、それに乗って新潟の海水浴に出かけたが、電車の乗り継ぎの間に重い荷物を持つことにすら我慢がならず、父親に来年からは再び車にするよう提案をした。しかしそれはもう、家族で出かけた最後の旅行だったのかもしれない。最後というわけではないが、末期だった。新幹線のシートに父親と隣同士で座り、私は父と特に話すこともなかったし、当時は叔父にアイワというメーカーのポータブルカセットプレイヤーを借りてそれで音楽を聴いていたので、父の隣で私は最新の機器を扱うかのように耳にイヤホンをはめた。音楽はCHAGE&ASKAだった。CHAGE&ASKAは、私が中学のころに「スーパーベスト2」というアルバムを出して絶好調だった。それで、モーニングムーンを聴いていたら私もいつのまにか声を出して歌ってしまっていたようで、しかし新幹線の車輪の音でかき消されるかと思ったら、新幹線は当時最新の防音技術で思いのほか静かだったので父親に、
「なに唸ってんだよ」
と言われた。父はCHAGE&ASKAを知らなかったのである。また、アルフィーも知らないだろうとバカにしたことがあったが、
「ひとり声が高いやつがいるだろ。あと、実家が秩父の酒屋のやつもいる。キャンプの買い出しで何回か行ったことがある」
と言い返された。桜井メンバーのことであった。

卒業式に話を戻すが、どの話も退屈で苦痛だった。とくに最悪なのがあらかじめ下書きしたものを読むパターンで、下書きというのは、喋るものからしたら免罪符のようなものになるらしく、まるで「どんなにつまらなくとも、私には書かれたことを最後まで読む権利がある」と、主張しているかのように、紙から目を離さず、オーディエンスの気持ちなどまるで考えない。校長、PTA会長までは目をつぶるが、学年主任ごときにまでこれをやられると、こちらはたまったもんではない。私は寒いと機嫌が悪くなるのだ。さらには生徒の方の挨拶でも、そういう悪い影響を受け、
「お世話になりました」
などと言う。場にあった言葉選びを行う。そういうのが大人になった証なのか。そういえば卒業証書授与のときに、もらった人とこれからもらう人が横並びになって、一緒に礼をする儀式があって、それは私が小学校の時からそうで、私はその当時から、違和感があって、
「工場の流れ作業みたいだな」
と思った。たまに障害のある子や、注意力散漫な子などがいて、うまく息を合わせられない。そういうのは、つまり義務教育のエラーなのか。これ以上は書かない。

多くの人が壇上で
「夢を持て」
と言うが、これほど擦り切れてしまった言葉があるだろうか。「自分らしく」とか、「友を大事に」と軽々しく言うが、これらが相反する場合については何も触れない。身を持って学べということか。それならば最初から何も言わなければよい。