意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

考える練習

昨日か最近、考える力をつけるためにどうこう、という話題を目にし、見なきゃいいのにと思いながらも読んだ。なにか言いたくなるときもあるが、結局は
「人それぞれだよな」
というところに落ち着く。しかしたまに書くこともある。

やたらとゼロ秒で思考がどうとかいう本がもてはやされているが、もちろん中身はすばらしいのかもしれないが、少なくともこういうタイトルで読もうという気は起きない。これも一種のゆさぶりではないだろうか。死んだらどうなる、老後の不安とか、格差が広がっている、とかそういう不安を揺さぶってなにか高いものを買わせたり、立場の強い人が恨まれないように操作するのである。考えてみると小学生のときから、たとえば算数の問題ですばやく答えたひとがもてはやされ、テクニックばかりが重視され、そういうのって結局は考える力をなくす訓練だったのではないか。どんどんスピードをつきつめて、考える時間をなくす作戦である。そういえば少し前にナミミが中間試験の数学がわからないと言うから、解き方を一緒に練習したら翌週の塾で、
「どうしてそんな面倒なやり方するの? こうやって解くって教えたでしょ?」
と怒られた。私としてはすまないことをした、とそのとき思ったが、塾の解き方はその場しのぎでなんの応用もきかないから、やっぱりうちの子はバカにされていたんだな、と思い直した。

昨日読んだ記事には、「本を千冊読んだらこんなことがわかりました」という主張がなされていたが、わかった、と言うのなら、似たり寄ったりの千冊だったのではないか、と判断せざるを得ない。本当に千冊読んだのなら、あるいは十冊でも一冊でも、みんな考えることは違うのだから、わからなくなるものではないか。わからないに耐えられなくなって、私たちは書かれた内容をどうにか自分の血肉にしようとする行為が読書なのではないか。「わかりました」は、そうした行為の放棄であり、単なる奢りでしかないから、私は今後、他人に本を読むことをすすめたくなくなった。

昨日の記事について私は、一瞬「本当に考える力をつけたいのなら、保坂和志「考える練習」という本を読んだらどうか」ということをコメントしようと思ったがやめた。私は以前の記事でも同じ本の中で、若い編集者に対して保坂が
「考えることがなにか知りたいのなら、結局は「モロイ」を読め、ということになる」
と言うぶぶんを紹介したが、これはサミュエル・ベケットの小説だが、これはすごく面白いと思ったが、私がなんでもかんでも「考える練習読め」「「モロイ」読め」と言い続けたら、それこそ思考停止なのではないか、と思ったからである。だから、新しい経路を、常に探し続けなければならない。