意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

いちばんの不安

私はもろもろの不安はあるがその中でいちばん大きいのは
「自分の子供が死んだらどうしよう」
という不安である。しかし「もろもろの」とつけたもののそれは一種の保険のようなもので、実際は単に不安というレッテルを貼られたものがほとんどである。しかし自分の子供が死んだらダメージがでかい。よく子供の虐待死とか、虐待じゃなくても色んな要因で死んでしまう子供がいるが、そういうニュースを見ると自分の子供に置き換えてしまうから、可能な限り見ない。
「娘が事故で亡くなった」
という言葉があるとき耳に飛び込んできて、「ああ、またか」と気持ちが沈んだが、その後「娘(68)」という文字を目にしたとたん、
「なんだ」
と心が軽くなったのは、結局自分の子供に置き換えられるかどうかの心の作用な気がする。あと木曜の夜にやっている「アンビリバボー」という番組でもよく、
「余命いくばくもない子供」
とか出てきて、もう見ていられなくなる。余命いくばく、だと大人が死ぬ場合もちょっと見ていられない。病気がいちばん嫌だ。例えば事故ならば、こちらが隣にいればいざというときに、守れる。守れない可能性もじゅうぶんあるが、希望は持てる。しかし病気はいったい何に気をつければ防げるのか、その手段を検討すると途方に暮れてしまう。たとえば煙草の煙は肺ガンになるというが、煙草を吸ったことがなくても肺ガンにはなる。

ところで、私は「アンビリバボー」という番組は、所さんが司会の頃はよく見ていた。あの番組は初期では、
「恐怖のアンビリバボー」
「ミステリアス・アンビリバボー」
「感動のアンビリバボー」
と三本立ての構成でわかりやすく分かれていたから、見ている方は、
「今日は恐怖で」
とか、選ぶことができた。私はだいたい「感動」はパスした。他の多くの番組は、頭から終わりまで見ないと、ちゃんと見た気がしないのに対し、「アンビリバボー」は恐怖だけでもきちんと「見た」と宣言できるような心持ちになる。

それで結局私がなにを言いたいのかと言いますと、この前に「自殺する人はアホ」という記事を読んで、私は主だった内容については特に感じるものはなかったが、書いた人の「子供ができると、親より先に死ぬことに罪悪感をおぼえる」というぶぶんには共感した。私も十代の中盤からは死ぬことばかり考えていたが、死ななくて良かった、と思う。そして自分の子供が自分のようになってほしくない、と心底思う。私が死ぬまでは、そういうことに鈍感であってほしいと思うが、これは私のエゴだ。私はよく、子供の欠点を見つけたりすると、安心する。

しかし私がそういう主張をあまりしないのは、その感覚が主観的だから、というか私はいつも主観のことしか書いていないけれど、やっぱり
「子供ができると、変わりますよ」
ということを、うすっぺらくならずに言うことができないのである。上記の記事を書いた人は、「子供ができると、変わる」と述べた後に「でもそれは子供ができないと、わからないかもしれない」と続けていて、私は
「そりゃねーだろ」
と心の中で突っ込みをいれた。それを言っちゃあおしまいよ、である。あなたにはわからないだろう、みたいな姿勢で、読む人はついてくるのか。いや、ついてくるだろう。私は最後まで読んだ。しかし、やはりその点に関しては、私は納得がいかない。

結局世の中の自殺者を減らすためには、自分の子供を持つのが良い、とするのなら、結婚することや子をはじめとする持つことがいかに合理的であるか、について論じるべきだ。しかし死なないためにつくられた子は、その子自身も死なないためには子を持つ必要があり、それってネズミ講みたいだな、と思った。