意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

「楽しかった」のは、今ではない自分

小学生がたびたび話の最後にもちいる「楽しかったです」について、私は長い間、それはまだまだ語彙の少ない児童が、教師やその他大人、およびそれらを取り囲む無色透明の空気に配慮した結果に生じる文字の並びと認識していた。それはひっくり返せば、
「そう簡単に楽しいことがあるわけがない」
という私の人生観にも関係があった。しかし、それは今時点の私がそうなのであって、決して自分の子供のころがそうだったとは限らない。私は物心ついたころから憂鬱なことがたくさんあったが、幼稚園のころ、六人くらいで座るテーブルに片肘をついてその上に頭を載せていたら、同じグループの男子が先生に告げ口し、
「棚尾くん、つくえに肘をつくのは良くないよ」
と注意されたことがある。私は物思いに沈んでいたのであった。しかし実のところ、私は空いたほうの右手で架空のコンピューターのキーボードを操り、極めて複雑な演算をこなしていたから、本当は憂鬱なのではなく、単に格好つけていただけだった。だから記憶はあてにならない。

週末、棚尾家は県外で一泊する予定だが、小学三年生の、シカ菜という名の女児は、楽しみではちきれんばかり、といった具合だった。当日に着ていく服の選択を二週間くらい前から行い、私に当日の気温を訊ねてきた。しかし私のスマホGoogle天気予報は一週間前くらいしかでないからその旨を伝えると、
「つかえねえ」
と言われた。一方の私は、さして楽しみではなく、しいて楽しみなのは行き帰りに長時間車を運転できることくらいだった。車の運転が特別好きでもなかったが、車の運転という労働を請け負えば、代わりに子供の相手をしないで済み、後部座席で新しい遊びを編み出したりしないですむから楽だった。高速道路の三車線のどれを走るか選ぶのは、比較的楽しい。しかし妻の方には分業という発想はなく、眠くなればただ寝るだけなので、そうなると私は車と子供の両方を担当しなければならなかった。基本はトークになるが、私は子供語が得意ではないから、自然と大人語ばかりしゃべってしまい、そうすると
「つまらない」
とか言われた。むしろ3DSでも持ってきてくれたほうが、私としてはありがたいが、あまりゲームばかりだと妻が怒り出す。私は本当にやらせたくなかったら、
「やるな」
は逆効果だと思う。