意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

文章が向上するn個の法則

上記の昌平さんの記事を読んで、私は
「たしかにそうかもしれないな」
と思った。昌平さんが参考にしたであろう元の記事も私は読んだが、ちょっと数が多くて私にはおぼえられそうになかった。おぼえているのは「一文を短く」というのだが、そんなのは嘘っぱちです。短ければ良いというのなら、みんな昔のアニメのインディアンとか黒人みたいな、
「俺、出かけた、ディズニーランドに」
みたいな文章になってしまう。でもそれはそれで面白そう。あと主語と述語とか句読点とか。「向上する」とは、そういった事柄からどうやって解放されるか、ということである。

しかしこのようなことは、もう私がブログを始めてから10回は言っており、それなのに飽きないのはなんでだろう。「一文は長い方が良い」とか、私は機会があれば何度でも言いたい。それはこと文章かんしては、みんな同じようなことばかり言うからではないか。だから、私はやすやすとその分野にかんしては、個性を手に入れてしまうのである。ああつまらない。

それで私は私で文章力が向上する法則を披露すると、それは「読む」ではないかと思う。やはり書くためには、まずは書かれたものを目にしないと始まらない。吸収する、とうっかり使いそうになったが、吸収すると、その人の血肉なることが前提のようになってしまってイヤだ。高校時代にマッチョの英語教師がいたのだが、彼が、
「英語を話すとは、アウトプットなわけだから、インプットしなければ話せない」
と言っていて、そんな単純なものなのだろうか、と思った。彼は角刈りだった。しかし悪い人ではなかった。私は公立高校出で、しかも高校は山の中にあったから、教師も生徒もみんな牧歌的だった。

だから、読むのはとても大事だが、読んだ文字数そのままの量をかけるとか、何分の一は書けるとか、そういう計算で済ませてしまおうというのは、向上とは言えない。ものを書くとは奉仕なのだから、下心があるうちはいいものは書けない。そういうことじゃなくて、たくさんお金をもらえるとか、みんなに上手いと言われるものを書きたいというのなら、文は器と割り切って、中身の盛り付けに注力した方が良い。頑張ったぶんだけ報われる盛り方もきっとあるだろう。私は興味がないが。

それで、とにかく読んでいくと最初のうちは感心ばかりしていたのがそのうちにありきたりに感じるようになって、読むことなんてそれほど好きじゃないと思えてくるので、そこがスタート地点で、「好きだから書く」という時点では、まだまだ向上は望めない。