意味をあたえる

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就職

濱口桂一郎著「若者と労働(中公新書ラクレ)」を読んで、こういうの待ってた、という気になった。私は長い間組織に入ったらどうしてそこに忠誠を誓わなきゃいけないのか、会社のためにがんばらなきゃいけないのか、本当は社長や上司など見る角度によっては私よりもぜんぜん愚か者なのに、すべてのパラメーターが自分よりも上回っているような態度を取らなければならないのが疑問であったが、ある程度の答えを得ることができた。それまでは無能のふりをする罪の意識を、無気力、やるきゼロの態度でごまかしていたわけだが、著者の主張する世の中が実現するのなら、私はやる気を少しは出せるのかもしれない。

奇しくも今日の午前中、就職活動中の若い方が自らの命を絶ちたい旨の記事を目にし、それは毎年どこかしらで目にする文字の羅列であり私の感情もパターン化され、彼(彼女)の感情は相対化され、一種の娯楽になってしまい私は二重に気の毒に思う。「お母さんも泣いている」とあって、お母さん泣いている場合じゃないですよと思ったが、それはなにも一緒に受かりそうな企業を探すとか面接の稽古をつけてやれとかそういうことではない。私が親で、親らしいことをしたいと思ったら、まずは落とした企業の悪口をさんざん言って、家庭内不買運動を展開する。でもそれも結局は親が子供を低く見ていることの裏返しではないかと書いてみて思った。そう考えるとやはり親は子供だって良い歳なのだから、知らん顔するのがベストである。知らん顔できるくらいの関係性に至っておく必要がある。

ところで同じ日の午前中、私は私で自分が案外早死にするのではないかと思った。両親と、あとよく知らない人たちがジャガイモ掘りを始めて、明らかに私よりも溌剌として元気だったからである。私はここのところ下痢気味で、トイレの中で用を足し終わっても、このまま便座に座り続けていたいと思った。蒸し暑いから、熱中症にでもなったのかしらと思った。元気の前借りというエナジードリンクを飲みすぎて、自己破産直前にでもなったのか。相変わらず腰も痛いから、かがむのが億劫で、何より服や靴が汚れるのが嫌だった。今日知り合ったばかりのよく知らない人に、
「百姓の倅は、だいたい野菜が嫌いなんです」
とうそぶいた。しかし私の父だって百姓の倅のくせに、ドヤ顔でキュウリを縦に切るのだから「程度にもよりますが」と、すぐに補足した。

何もしない私は必然的に子供たちの監督者となり、この子供たちもひどかった。鬼ごっこや隠れん坊では、私を鬼ばかりにし、いい加減に追いかければ「やる気を出せ」と叱責し、本気で追うと「大人げない」と文句を言われる。「お家ごっこ」では私だけが一家の外の、隣の家の住人で、そのくせ家具の搬入は私ばかりにやらせ、挙げ句の果てには不法侵入で警察を呼ばれてしまった。私の
「弁護士を呼んでくれ」
「黙秘する」
の要求には一切耳を貸さず、裁判は形ばかりでさっさとイバラの牢に入れられてしまった。牢の天井にはとても食べられない、小粒の葡萄がぶら下がっていて、この葡萄は私の子供のころにはなっていただろうかと思った。そこは私の父の実家であった。