意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

サミュエル・ベケット「事の次第」

表題の本を買った。不安になるくらい面白くなかった。しがみつく読書の始まりである。買うときには気付かなかった帯に
「句読点のない言葉がリズミカルに匍匐前進してゆく」
とあった。句読点がないと絵本のようなものを想像するかもしれないが、絵本にはスペースがある。子供向けの絵本を読むと平仮名というのはひどく骨の折れる、というか世話の焼ける存在だと気づかされる。日本語の単語間のスペースってダサい。あと私は最近「、」の多い文章も嫌だ。

表題の本はスペースもないので、まともに読むとすぐずっこける。確かに「匍匐前進」したほうがケガをせずにすみそうだ。しかしのろのろしか進めないから苛々する。苛々するし集中できなくて、つい違う本のことを考えてしまう。飽きたら違う本を読もーって考えるからだ。飽きる前に眠くなるのだが。

句読点もスペースもないが、何行か読むと行が空いている。息を止めながら、沈んだり潜ったりしているような文章だ。違った。これでは浮かび上がれない。

呼吸をとめて、死んだ文章を書こう。

短い固まりが延々と続くからこの小説は歌集のようでもある。そういうことも読む集中力を妨げる。私は短歌も書くから脳が放っておけないのだ。そういえば昼間読んだ記事でみずほ銀行デスマーチのことが書かれていたものがあって、それにつけられたコメントに
「タイトルが575っすね」
のいうのがあって、不意に相対性理論(バンド)の地獄先生という曲のことを思い出した。

クラス対抗のデスマーチ

という歌詞(作詞:真部脩一)があったからであった。つまり、私は短歌をつくるにあたって、相対性理論(バンド)を参考にしたぶぶんはかなりあった。地獄先生を聞くたびに、昔読んだセンチメントの季節という漫画の一巻の最初に収録された「せんせい」という話を思い出し、
「あれはエロかったなあ」
と思ってしまう。話としては女生徒と実験室がどこかで性行為に及んでいるところを同僚の女教師に見られ、最後は教師同士で結婚するのである。漫画のよくあるパターンとしては女生徒は無駄に可愛く、女教師は無駄に地味な容姿で目も当然一重だった。しかし最近の教師には可愛い人も多く、私からすると大学生が戯れているように見えるときもある。芋は芋だが。