意味をあたえる

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いぬやしき 感想

昨日奥浩哉による日本の漫画、「いぬやしき」の1巻と2巻を読んだ。なかなか面白いと思い、続きを読みたいと思った。しかし2巻の適等に選ばれた一家が殺されてしまう場面は読んでいてつらかった。私には妻と子供がいるからである。最初にお母さんが台所で殺され、次に幼稚園児くらいの子を風呂に入れていた父親が殺され、子供は殺されなかったが父の重みで溺死し、最後に高校から帰ってきた長女が、
「お腹すいたなー。お、今日は肉じゃがかな?」
と言って殺された。つまり家の中は死臭より料理のにおいのほうが強かったから犯行は短時間で効率良く行われたということだ。肉じゃががつらい。どうしてこんな残酷なシーンがエンターテイメントとして成立するのか、作者というか人類そのものが憎かった。私は午前中にそれを読み、そのとき小学校に行った次女が、家のすぐ近くの見通しの悪いカーブで車にはねられるのではないか心配になった。あそこは下り坂だから、馬鹿な車は加速してしまう。私は一年生の頃に、カーブに入る前にカーブミラーを見て、車の有無をチェックしたほうが良いと子供に忠告したが子供にはカーブミラーが理解できなかった。だから死んでしまう可能性もあった。そのあと今度は長女から迎えに来てほしいとラインが来たから、わざわざ川越まで迎えに行った。西口のマックの前ね、と伝えたら東口のマックの写真を寄越した。私はそのときすでにマックの前にいて、サラリーマンが出てきたの見える? ときいたらこちらには学生しかいない、というから変だと思った。私は東口のマックなんて知らなかった。東口のマックには虫がたかるみたいにたくさんの自転車が停められていた。娘が言うには二階は骨付きの鶏肉を売る場所だと教えてくれた。ケンタッキー、が出てこなかったのである。それでも私にはそんな場所があるなんて思いつかなかった。私は西口で辛抱強く待った。

私はあんなにつらい思いをしたのに、一家惨殺のシーンを帰ってから5回くらい読み直した。どうして読めるのか、それは本当の意味でリアルでないからだ、というのを以前どこかで読んだ。バイオハザードでゾンビを殺しまくれるのは、結局ゾンビが人間でないからだ。そういう意味で、ゾンビは、人間が人間を殺すために作られたのかもしれない。もちろん本物の人間を躊躇なく殺してしまう人もいるだろうが、そういうのはまだまだ例外で、例え二次元でもゾンビくらい人間くささを消さないと、大多数の人は気持ちよく殺すことができない。

結局いぬやしきの一家も絵であるから、私は受け入れることができた。例えば大震災のとき、Twitterで誰かが、私たちの住む世界は、もう違ってしまった、と言っていて、私は外を出歩く度に、建物や電柱が私めがけて倒れる想像をコントロールできなかった。それと同じようにいぬやしき、の件のシーンのあと、私の一家も死ぬ気がして仕方なかったが、ものの数時間でそれは霧散した。地震のリアリティには遠く及ばなかった。それは注意深く絵を見ると、黒目が濃く書かれていたり、とか細かい配慮によって、「これは嘘ですよー」のサインがなされているからである。自然現象には当然配慮などない。