意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

下書きが消えた

「下書きが消えた」
と思ったが、そもそも何も書いてなかった。私はいつもだいたい最近では3時休憩のときにブログの記事を書くことが多く、休憩終わりまでに書き終えることもあるが、書き終えずに後から付け足すことも多い。書き終えなかったとき、そんなときはもっと書きたいと思う気持ちがあるから終えないわけだが、二時間三時間経ってあらためて記事のフォームを開くと、
「これ以上は書けない」
という状態になっていることも多い。そういう状態を予感して、あえて「ところで」なんて接続詞をつけたところで中断することもあるが、この手の接続詞が再開後にうまく使われた試しがない。だいたいは消して違うことを書くか、まれにそのまま続けることもあるが、そのときはたまたまつながる言葉を再発見したときで、だから中断前は10行くらいのボリュームを想定しても、3行で終わることもある。

私はこの記事を書きながら、このあとに本題が控えているような体裁になっていることに気づいたが、もちろんそんなものはなかった。この記事のタイトルは「下書きが消えた」だが、確かに一瞬そんな気がしたが、消えてなどいないことに、書き始める前には気づいていた。私はそこまで愚かではなかった。しかしどことなくこの文章は何かの前置きのような気がしてならない。

前置きの長いブログをたまに目にするが、それはやはりほどほどにした方がよいというのが私の所感である。前置きそのものが悪いわけではないが、中身がないぶん、そこに自身のキャラだとかを反映してバランスをとろうとして、全体が「やらせ」のような雰囲気となる。誰かが「文章とは中身より文体が大事」と言ったが(言ってないかも)あれはウソだ。じゃあ中身が大事なんですねとなるが、それも違い、どれも大事じゃない、というのが私の今の境地です。大事じゃないから、バランスをとろうとはならずに、野生っぽい文章が書けるのである。この場合の「大事じゃない」は、「カイジ」に出てくる兵藤和尊の「命は大事じゃない」に近い響きがある。それは全体で見ればアンチテーゼなのだろうか。しかしやはり命は大事じゃない。少なくとも私たちはかけがえのない存在ではない。「かけがえのない」という洗脳が、とれだけ私たちを苦しめてきたか。以上で私の今日の記事は終わりです。