意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

生きるとは死なないこと

これから書こうとすることは、先週金曜日に養老天命反転地に行ったときに感じたことだが、そのときは行った人みんなが感じることだからわざわざ文字に起こすまでのことはないと思っていたが時間が経つにつれ、そうとも限らないと思うようになり、なんにせよ行かない人は感じない。だけれども書こう書こうと思って一昨日が過ぎ昨日が過ぎ、ここまでくるともうちゃんと書ける気がしない。頭の中で書きすぎた。そういうことはまずうまくは書けない。それでも書こうとするのは、他に書くべきことが見つからないからだ。

私はこの3日間高速道路をよく走った。かなりの距離を走った。走り続けているとどうしてこうもしつこく平面が続くのか奇妙な気になってきた。私は道を間違えた。私はふだんからよく道を間違えるのである。ナビに頼りすぎて、県の位置や方角などをおぼえないからだ。しかし道は間違えたからと言って、そこで道からはじき出されるとか、そういうのがないから奇妙だ。私はこのことについて、それは誰かの意図が働いているからだ、と分析した。おおよそこの世にあるもののうち、人が作り出したものには何かしらの意図がある。意図があるから私たちはここまで来ることができた。高速道路というのはかなり強力な意図だ。それが山を削って道路を平らにする。トンネルも掘る。私はとても長いトンネルをくぐった。こんな長いトンネルを掘るなんて、かつての日本はとてつもなく景気が良かったのだろうと、私は分析した。

しかし他人の意図というのは、私たちに何かを強制する。道路を作られれば、もうそこを走るしかない。他人の意図には、自分の意図も含まれる。直線も曲線の一種みたいな理屈だ。たまに「生きているってかんじがする」という言葉を目にする耳にするときがある。頭に「自分の人生を、」と付いたりする。私はその言葉にいつも妙な違和感をおぼえていた。生きていながら、生きることを実感するなんて妙な話だ。私はこの言葉が、暗にふだんのなんでもない自分を否定し、余計な苦痛を自ら背負っているようにしか見えない。考えてみたら、私は旅の特別な雰囲気、が好きになれない。もっと平たく言うと、はしゃぐ子供や大人に嫌悪をおぼえる。それは決してふだんの自分をないがしろにしているから、という理由でもないが。

考える、と私たちは軽々しく言うがそれだって誰かの意図である。強制である。そこでどこかにたどり着いたとしても、それはすでに誰かが開墾した土地なのである。だから正しい間違いでくくるなら、考えることは間違いなく間違っている。

目の前の険しい道を一歩一歩歩くとき、私はこれこそ本来の生きる行為ではないかと思った。足を踏み外すと奈落に落ちて死ぬから、死なないように注意しなければならなかった。これは下手をするとすすんで苦痛を背負いましょうという比喩にとられるかもしれないが違っていて、私が言いたいのは放っておくと死ぬ危険が高まるから注意しましょうというだけのことである。死なないと生きられるのであり、生命だから生きることが目的なのである。

他人の子供にくらべ、自分の子供が死なないようより注意をするのも、愛着か遺伝子と言われるがこれも誰かの意図かもしれないので、ゆっくりと見極めていきたい。