意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

夏のおわり

まだまだ暑い日が続くが、夏はすでに過ぎつつある。子供の夏休みがあと一週間かー、とか思うと私も気持ちが下がってくる。そうしたらあの冷たい冬が来てしまうのである。寒い午前中や寒い晴れの日や寒い雨の日を思うと泣きたい気持ちになる。ただし、子供の頃登校中に日だまり目指してダッシュしていたころは幸せだった。日だまりは幸せの象徴だ。真冬の日だまりの気温なんてたかが知れてるが、それでも暖かい気がするのである。先生によっては冬が寒いからといってポケットに手を突っ込むのは転倒時に危ないという人と、寒いからポケットに手を入れようという人に分かれた。真冬には雪が降り、雪合戦などをした。そういえば三四年前に大雪が降って妻が風邪を引き、私が代わりに子供の幼稚園の三者面談に行ったことがあった。私はできるだけ父兄っぽくなるように、青色のカーディガンを羽織って行った。先生はせんせー、といった具合のヤンキー崩れみたいな女で声はガラガラだった。教室には一応三者面談の机の並びがしてあるが、いかんせん椅子が小さすぎる。そこではふだん座るのは幼児だけで大人は立ち尽くすのだ。私は小さい椅子に子供と隣同士で座り、
(まるでおままごとのようだな......)
と思った。そこで先生と雪の話をした。そり滑りをしているときに、順番を守れて偉い、と私の子供を褒めてくれた。私は
(いちいち一人一人良いぶぶんを見つけるのは大変そうだな......)
と思った。幼稚園は卒園するタイミングで苗字が変わる子供もいた。家に帰ると妻が掃除機をかけていた。風邪はどうなんだ、と訊くともう治ったと言う。元来頑丈な女なのだ。相対的に私がひ弱すぎるのだ。しょっちゅう「頭が痛い」だの「喉が痛い」だの言うから私は妻から嫌われている。私は結婚してからそういうのが甘えであることに気づいた。母が相手だったから、母も私が喉が痛いとか言われればまだまだ母親ぶれるから嬉しかったのである。しかし妻は母ではないからただ鬱陶しいだけだった。私は体調が悪くても表には出さないよう気をつけることにした。私は生まれたころはあまり体が丈夫ではなく、今ではすっかり健康になったがそういう丈夫でなかったころの気質は抜けない。しかし悪いことばかりではなく、つべこべ言わずにすぐ病院にかかれる。私は経済的な人間で、たとえば喉が痛くて不快なとき、それをお金に換算して病院代とどちらが安いか比べることができるのである。もちろん不快の対価はでっち上げで構わない。しかしそんな風に考えるとすっと病院に行けるのである。それと、健康に感謝できるという良いぶぶんもある。私はこの前険しい山道を登ったが、その際痛くならなかった膝や関節を、とてもすごいやつだと思った。私の年なら、また若い頃に激しい運動をした人などは痛くなってもおかしくないが、私の膝関節はまだ無事だった。それがとても愉快だった。私は周りの風景などよりも、そのことばかりに注目していた。極めて傲慢な態度である。道中私を抜かしていった人もいたが、私は特に気にせずマイ・ペースで歩いたら、やがて途中の岩の上で休んでいるその人に追いつき、私は追い抜き返した。その人は私よりも太っていたから、スタミナがもたなかったのである。私は最初は山登りするつもりがなかったからでたらめな装備であり、始終靴が汚れることばかり気にしていた。イエモンの曲に、靴が汚れるからバイトに行きたくないという曲がある。私はその曲が好きだ。弟も好きで、よく替え歌にして一緒に歌った。昨晩弟が癌で死ぬ夢を見た。とても悲しかった。弟が死ぬと、いつも五木寛之のことを思い出す。五木寛之の弟も、兄より早く死んだ。そのことが「生きるヒント」に何度か出てきた。私は弟より早く死ぬのは嫌だが、早く死なれるのも嫌だった。やがて私たちは仲が悪くなるのかもしれないが、それでも大航海時代大魔界村を一緒にプレイしたことは忘れない。今では弟の方が不健康なのである。