意味をあたえる

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桶川ストーカー殺人の番組

事件のことがテレビのバラエティ番組で取り上げられていて、私はこの手の番組は見ていてツラいから見たくないが家族が見ていたから私も見た。特に前半の「こんなひどい目に遭わされた」パートがつらかった。殺されてしまうという見えている結末が息苦しく、どうしてこれがバラエティになってしまうのか、私は不思議だった。不思議なのは私ではなく周りなのだろう。他人ごとの、しかも画面は再現であるから実際の演者が死ぬわけではないから、私は過剰に感情移入しているだけだ。そういえば昔は手塚治虫の漫画で、人がほいほい死ぬのがやはりつらかった。ギャグマンガは崖から落ちても、壁を突き抜けても踏まれてぺちゃんんこになっても、次のページではけろりとしていて、読んでいるこっちも気楽だったが、シリアスだとそうはいかない。シリアスなほど人はもろくなるのだ。そういえばシリアスな話は人が「ここ!」というタイミングで必ず死んで、私はそういうシリアスさには人の死が欠かせない、みたいな主張がいつからか透けて見え、つまりは人が死ぬ話を書く人は力不足であると思うようになった。死ぬというのはもっと自然なもので、用意周到なものでは決してないと思う。あと死ぬというのはマイナスの感情ばかりではないと思う。死が悲しい、というのは創作物の刷り込みではないか。人の死とドラマといえば金八先生というドラマを見ていたらあるときおじいさんが死んで、その人は最初は嫌な人だったが徐々に生徒と打ち解け、打ち解けたところで死んだ。死の直前に、生徒のひとりが見舞いに行くと、おじいさんは目を覚まし、「今何時か?」と訊くと生徒は「五時です」と答えるとおじいさんは「もう朝か」と勘違いし、私は「ああ死ぬんだ」と思った。とても印象に残った。逆に死ぬ直前に妙に饒舌になるドラマもあるが、むしろそれは生き返ってるんじゃないかと思う。

番組は後半になると警察の怠慢パートになって、告訴を無理に取り下げさせたりと、まともな捜査がされなかった状況をひとりのジャーナリストが暴き、徐々に真相が明らかになり、そこは見ていて気が晴れた。こういうのをカタルシスと言うのだろうか。しかしやはり私は懲戒免職になった刑事の課長を気の毒になってしまった。課長をやっていた俳優が別番組の大家族のお父さんに似ていたからかもしれない。似てなくても「悪いんだからクビは当たり前、自業自得だ」という風には思えなかった。