レンタル屋でいぬやしき7巻とゴールデンカムイ2、3巻を借りて読んだ。私は最初7巻をすでに読んだかどうかおぼえていないから6巻を少し手にとって読んでみると主人公の高校生の娘が「漫画家になりたい」というカミングアウトをし、お母さんは反対するものの主人公であるお父さんは
「いいんじゃない」
みたいな反応をし、その反応に対して娘が今まで抱いていた感情に変化が訪れる、みたいな描写がされている。そこまで印象に残るシーンではないが、この家族は四人家族で父親だけが除け者にされるような描写が特に最初の方にはあって、私は読んでいて苛々したから素直に父親を祝福したい気持ちになった。夫婦は二人とも老いていて特にお父さんの方はおじいさんと見間違うような外見で、今時60代でももっと若々しい。あとこのマンガは写実的な絵で人物や建物が描かれていて、人物は無表情なことが多く、表情とセリフが合っていないように感じることがあるが、それはそれ以外の漫画の大げさな表情に慣れすぎたせいかもしれない。
昨日か一昨日に漫画(アニメ)に対するリアルさにたいするネットの記事を読み、物語を楽しむためにはリアリティのなさに目がいっても見ない振りをして楽しむべきだ、という主張がなされていた。それと逆行するようなことを書くが、いぬやしきでは主人公のおじいさんが色んな人の声を同時に聞くシーンがあるが、その中に
「円高ドル安がすすみ」
とあって、これはどうなんだろう、と思った。物語では獅子神という少年が1日千人殺すと宣言して飛行機をばんばん墜落させ、その前日にはスマートフォンを使って生放送中のニュースキャスターのこめかみを撃ち抜いたりした。総理大臣は非常事態宣言をまだしていないが、無差別テロというか、戦争状態のこの国で果たして円は買われるのだろうか。ニュースで円高が進むと専門家は
「比較的安全な円が買われる」
とか言うのだから、今は比較するまでもなく安全ではないから円なんか投げ売りされるのではないか。もちろん私の知らない経済のセオリーがあるのかもしれないが、私はそこがリアルじゃないと感じた。あと、ニュースキャスターがスマホでこめかみを撃ち抜かれるシーンで、キャスターは
「いてっ」
という顔をするが、果たして脳は撃ち抜かれて機能を停止する前に衝撃や痛みを顔の筋肉に伝えることができるのだろうか。一方ゴールデンカムイでも大尉が頭を撃ち抜かれるが、こちらは無表情のままであった。私はこちらの方がリアルだと思う。
リアルかリアルでないかは、必ずしも面白さとか読ませるさと比例関係ではない。しかしリアルでないと興ざめするのはなぜかというと、結局は書き手が覚めているかどうかである。村上春樹が何かの文章で自分の小説について、
「現実には起こりづらいが、この世のどこかでは起きているかもしれない」
という風に語っていて、そういう確信が読者を最後まで引きつけるのではないか。
保坂和志はエッセイで三丁目の夕日のことを書いていて、あの映画のラストで東京タワーのバックに夕日がかかって、というシーンがあるがその前の電車のシーンから地点を割り出すと夕日と東京タワーを同じ方向で見ることは絶対できないと言っていて、客を騙している映画だと批判していた。一方で「未明の闘争」という自分の小説では池袋のびっくりガードのそばの交差点の信号が全部青になる、と書いたら校正の人に「ぜんぶ青は起こりえない」
と指摘され、くだらないことを言ってくるな、と一蹴したとあって、保坂和志という人はまったく自分の中で統合がとれてなくて、どちらも当人が書いているから愛嬌だと思っているのかもしれない。