意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

シャツを裏返しに着るように

毎日なんとなく書いているが、うまく書けたと思う日とそうでない日がある。私は自分の手応えすなわち文章のクオリティとは思っておらず、さらに客観的な善し悪しはもっと隔てていると考えているから、うまく書けたと思ってもそんなに嬉しくはない。嬉しくない反面、逆に下手に書けてしまったときも落ち込むこともない。書きたいことが先にあると、どうしてもイメージとの差異に悩まされ、苦しくなって冷静さを失い、つい自分を過小評価してしまう。過小評価が苦しいのではなく、苦しいから「自分はダメだ」と思いたいのだろう。そういえば昨日は書きながらそういう気分に見舞われ、カンショウ的になってしまったぶぶんもあった。

イメージがあるとどうしてうまく書けないのか考えるに、おそらくイメージとは文字でないのであり、書き出すには文字に置き換える作業が必要であり、置き換え時に何かしらの障害が発生するのではないか。

昨日もそうだが、ぜんぜんそうは思っていないのに、前段落からの文字の積み重ねで、そういう主張にならざるを得ない、というときがある。私はそのような状態を「シャツを裏返したような文章」と呼び、これが書けたときの満足度が高い。それはある種の変身願望というのでしょうか、自分の中に全く違った考えを持った自分が、全くの偶然ではなく、それまでの流れをきちんと汲んで現れたようなかんじがする。あとよく映画とかで、科学者などが、
「何度計算しても、○○になってしまう、○○なんてありえないのに」
というのに似ている。ちゃんと正確に計算するほど、誤った解が求められてしまうのである。違うのは映画の場合は「ありえない」はあり得ることを指すが、こちらは現実なのでランダムである。