意味をあたえる

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自己肯定なんて言葉は邪魔だ

私がインターネットでおぼえた言葉のひとつに「自己肯定感」というのがあるが、そのワードはだいたいそれが低い人によって使われ、高いから云々、というのは見たことがない。そもそも自己肯定感なんて言葉はあるのだろうか。自己否定はなんか高校時代から使っていた気がする。生い立ちがどうのとか、とにかく自分がダメな理由探しをする時期は誰にでもあると思う。なぜならそれは気持ち良くて手軽だから。何かにつけて「俺はダメだ」と主張する人が私の友達にいるが、結局それはチヤホヤされたいだけのように見えた。私は、だから、人はいかに無個性になるかとか、他人に無関心になるかがとても大事だと思っている。他人に対する興味がなくなれば、なにができるとかできないとか、些末な問題になるのではないか。私は最近ボルダリングを始めて、私はまったくの素人だからなるべく人のいない時間に行ってこそこそ練習しているのだが、そういう自分に自己嫌悪をかんじる。ボルダリング界全体がそうなのか知らないが、私の行っているところは最初にルールみたいな説明が軽くあって、あとは好きにしてよ、と放っておかれる。レッスンもあるから受けたほうがいいですか? と訊いたら
「もっとうまくなってからのほうが良い」
と断られた。ある程度登れるようになって、頭打ちになったときのほうが効果はあるようだ。だからひとりで本を読んだりしてあとは自分の判断で岩にしがみつくのだが、たまに思い出したように、
「そこはこうやるんですよ」
とスタッフが声をかけてくれる。言われたとおりにやってゴールまで行くと、
「ナイスです」
と褒めてくれるが、なにがナイスなもんか、と思ったりする。
「週に二回くると上達しますよ」
と言われ、そんなにしょっちゅうは来れないよ、と思ったら表情に出たのか
「自分のペースで楽しんでください」
とフォローされた。だから、いつまで通えるのか自分でもわからない。ひとりは気楽だが、やはり誰か(できれば当地で知り合った人)と世間話をしながら上り下りしたい。この前は大学生みたいな三人組がきて、きゃっきゃうるさいから帰ってしまった。そのときのスタッフは割と介入するタイプの人で、
「そこで足を載せ替えてー」
と細かいことを言っていたから尚更不愉快であった。私は30分くらいまえに同じところを登ったが、足なんか一度も載せ替えなかったから、きっと垢抜けない登り方だったのであろう。しかしそれでも「どうしてこんなことやってるんだろう」と迷いながら取り組むのは楽しい。お金を払って楽しいのか楽しくないのか態度を決めかねるなんて、馬鹿みたいで愉快だ。私ひとりだから迷うのだ。例えば誰かに誘われたとかなら、その人のせいにすればいいので楽だ。

私がボルダリングを始めました、とはなすと多分そのうちの誰かは、私の行動力などにうらやましいだのすごいだのと評価をする。私が以前フットサルをやっていたときも、そんな風にいう人もいた。そのときはたまたま音楽もやっていたから、とても私生活が充実している人という風にとらえられた。私はそういう風に言われるとつい、「そんなことないよ」と謙遜するが、決して本心では思わないようにしている。そういう人は案外ちゃっかり自分の生活は充実しているのである。むしろ、私に「勝った」と思う感情が、「いいなー」などの言葉を生むのかもしれない。私はそういう人は卑怯だと思う。