意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

simを解約せねば2

特に続きを書こうという気持ちではないが、昨日の段階では途中で道が逸れ、いずれは戻るだろうと思ったところで飽きて更新した。しかし戻ったところで何を書きたかったのか、もう思い出せない。私は書く前のだんかいでは確かにSIMの解約のことを書こうと思ったが、書き出すと違ってきた。私はこの違う感じがないと書けないのである、それは高橋源一郎の「一億二千万人のための小説教室」の影響である。あれの最初のほうに、書こうと思った小説が書けずに、ぜんぜん違う話を書いてしまうという小説が紹介されている。とてつもない、オリジナリティにあふれたストーリーが頭の中にあり、あとは紙にアウトプットするだけのだんかいだが、うまく書けず、あるいは何かに邪魔をされ、喫茶店のボーイかなんかに、
「あんたが書くべきなのはそういうのじゃないよ」
と諭されるのである。それが、そのまま読者へのアドバイスなのである。だから、私は読んでいてこれは高橋源一郎の劇中劇的な演出なのではないかと思ったが、ちゃんとした小説らしい。ちゃんとしているならちゃんと読みたいが、私は検索すらしていない。私はもう少し「本当にあるのかないのかわからない」状態を楽しみたい。

あるいは私がやっているのは小説ではないから、やはり前もって考えたことをアウトプットするのがある種の責任を果たすことになるという考えもあるかもしれない、一億二千万人のための小説は、小説だけでなく文学全体の話であり、途中で「これは小説? 詩? 俳句?」みたいなクイズコーナーがあってそれっぽい字句が並んでいるのだが、その答えの中に「目次のタイトルをそれっぽくならべただけ」というのがあって、だからもうこれらは完全なる主観の世界なのだ。私たちは頭の中に文字があり、文字の組み合わせの語彙と呼ばれるものが私たちの思考の基礎になっていることは明らかであり、語彙以上の思考はできないわけだが、やはり欲望は文字ではない。だからただ「考えたこと」をアウトプットしても、結局は何が外に出てきたわけでもなく、それは最初から外にあったものなのだ。