明け方ふっと今日が体育のある日だと思い出し、思い出さないと体育着やらジャージやら忘れるハメになるから私は安堵した。ジャージは向こうに置いてあるから大丈夫。体育着は下着も兼ねるから、制服の下に着ていくのを忘れないようにしなければならぬ。それから少しして私はもっと安堵した。私はもうすでに学生ではなく、体育とは無縁の生活を送っていたからだ。もっと安堵した理由は、私があまり体育が好きでなかったからである。
私が「やっべ、今日体育あった」の夢を見るのは今日が初めてというわけではなく、今までも何度か見た。おそらく本当の学生時代に明け方に体育があることに気づくことが何度かあったのだろう。夢というのは出口だけが違うだけで、全時代の自分が共有しているもののような気がした。私は帰り道を間違えて、37歳の今日に来てしまっただけかもしれない。しかしそういった考えが他愛のないものに成り下がってしまうくらい、現実の硬さと言おうか、融通のきかなさは強固である。ラッパーならば「現実の堅実さ!」とでも韻をふみたいところである。私は確実に「今」を生きていて、視界の限界まで世界は存在する。昔仮面ライダーだか、戦隊もののドラマで夢を操る敵が出てきて人々が夢と現実の区別がつかなくなったときに、主人公が
「画面の四隅を見るんだ! 四隅がふにゃふにゃしてたら夢だ!」
と見破ったことがあったが、私はそのイメージが強いのか、対象から離れるほど曖昧になるのが夢である。現実は「私」とは無関係である。
とここまでのおさまりの良さが気に食わず、記事を更新せずに放置した。やがて私は自分の「現実」を擁護している書き方に気づいた。現実側から夢を語るのだから、ホームアンドアウェーで現実の有利さは疑う余地はないのに、「現実は強固だ」「現実は私とは無関係」とやたらと主語を置くのはなぜだろう。なんでもそうだが、やたらとそれについて語るのはそれに対して不安を抱いている証拠である。読売巨人は絶対の強さを誇るのに、ファンが監督を差し置いて思い思いのオーダーを考えたりするのは、潜在的に巨人軍の脆さを見抜いているからである。そう考えると現実とは案外脆いものなのだろうか。
体育について思えば、私は体育の授業は好きではなかったが、考えてみると体育教師に体罰教師はいなかった気がする。私は学生の頃は体育教師がクラスの担任になれるなんて信じられず、また現実にそのクラスになった人間を気の毒に思ったりしたが、実際は社会科教師の私のクラスのほうが気の毒だった。その教師は定年間近の男教師で、教師の中でもバカにされているのか二年次以降はやたらとヤンキーばかりが集まるクラスとなってしまい、教室内は動物園のような様相を呈していた。教師もムツゴロウさんのような風貌であり、しゃべっている内容もよくわからず、こちらの主張も通じず、半ばボケているのか誰かが指摘しないと前回と同じ授業を寸分違わず繰り返したりした。私はある移動教室の日に強烈なデジャヴを味わったが、それはただ同じ授業を繰り返しただけだった。クラスの大半はこの男が担当なのを嫌がったが、ヤンキーには人気があった。私は、一年間笑い物にして、ツッコミの腕を磨いた。