意味をあたえる

文章としかいいようがない fktack@yahoo.co.jp

保坂和志

今月号の三田文学という雑誌で保坂和志の特集が組まれるというから購入した。そこに保坂にかんする山下澄人の文章も載っていて、そこに芥川賞の選考に出すために、原稿用紙250枚あった小説を200枚に縮めろと、編集者に言われた保坂が、
「だったら最初から200枚目のところで切って出してくれ」
と言った、というエピソードが書かれていた。それが山下が小説を書き始めたきっかけだった、と言う。この話は他でも書かれていたことがあって、YouTubeに投稿されていた保坂と山下の対談でも「これ読んだときに、ロックだな」と思って、とか言っていたから私は「山下は本当このくだりが好きだな」と思った。しかし山下の記憶は間違っていて、実は芥川賞ではなく群像新人賞に出す、というときの話で最初は群像にそのまま載せる話だったのが、編集者の誰かが「短くして出せ」と言ったのだ。結局保坂が逆らったからかは知らないが、新人賞には出されずに雑誌にそのまま載った、というのが保坂和志自身が書いたもののどこかに載っていた。山下は何度も書いているうちにわけがわからなくなったのかもしれないが、自然と間違えてしまうタイミングを狙っていたようにも思える。保坂和志の文章を読むとよく
「違っているかもしれないが、同じことだ」
と記憶の曖昧さをこのように書いているところにあたる。幼い頃の記憶とかなら違っても確かめようがないが、なんとかという本で読んだこととか、確かめれば済むことでも、そのまま書いてしまう。親切な本だと編集注が括弧で「実際は○○」と書いてあったりするから、本当に間違って書いている。どうして確認しないのかというと「同じこと」だからである。山下澄人も最近は似た書き方をする。私もさっきの群像新人賞のくだりは細かいぶぶんで合っているか自信がないが、どうでもいいやーって思う。

昔読んだべつの小説家は芥川賞をとるときに編集者に200枚あった小説を100枚にしろと言われ、一生懸命削ったら今度は250枚にしろと言われ、そうやって伸ばしたり縮めたりするうちに、本当に書くべきところだけを書く技術を身につけ、無事芥川賞をとることができた、というのがあったが、これは読むと確かにとれそうな気がする。しかしそういう原因があって結果がある、というのはスポーツである。努力は裏切らない、というのもスポーツの世界の言葉であり、表現の世界では関係ない。実は私は保坂和志の250枚→200枚のエピソードを読んでしばらくはそのことをどう捉えていいのかわからず、戸惑った。無意識に「編集者はプロと呼ばれる、とても偉い存在」というのが刷り込まれていた。何日か前の私のブログの記事で、大宮のライブハウスでバンド演奏をしていたころ、そこのスタッフに頭が上がらず、適当なアドバイスを真に受けてた、というようなことを書いたが、私は案外権威に弱いのである。怖くても胡散臭くても、自分の内からの声に耳を傾けないと、結局何を書くこともできない。

私は村上ポンタ秀一というドラマーのコラムを読んでいたときに、ポンタはアートとスポーツは違うということを言っていて、その例として例えばバラードを演奏するときは万全の体調よりも少し風邪をひいたくらいがいいとか、あとしばらく警察に捕まっていて久しぶりにシャバに出て最初の演奏のとき、たどたどしい感じがすごく良かった、みたいなことを書いている。だから練習してうまくなる、とか削る分だけクオリティが増す、みたいなのは嘘だ。